往昔、釈尊が霊山説法の会座に在ませし時に、あみだ如来の光明は釈尊の心想中に照り輝きて、また善導大師、法然上人の心念中に入り玉えり。如来も今あなたが至誠心に光明名号を称する時に、あみだ如来はあなたの頭を照らして心のうちに入玉う。私の心に応現し玉う弥陀尊も、宇宙間に最尊き唯一の如来が往昔も今も此と彼とに交渉し玉うことなれば、同一の如来にて在ますなれば、あなたはすべてに超て弥陀世尊を尊く辱なく礼念し玉えよ。
私は光明の名号ナムアミダ仏を称えて、現に真正面に如来在ますことを念じ上るとき、御影をもおもわで、只霊体に対する様な時は、只いと尊き尊崇の念に、自ら頭をたれて帰命頂礼の念が生じ候。また更に御慈悲の御面容を心に念じあぐる時は、欽慕の念に堪えず候。いつもあなたの念仏する真正面に真の如来は在ませり。如来と共に行住坐臥に離れざることを信じ玉えよ。
現代語訳
昔、釈尊が〔インドの〕霊鷲山にて、ご説法をなさっておられたとき、阿弥陀如来の光明が、釈尊の心想の中に照り輝き、また善導大師や法然上人の念ずる心の中にも〔如来は〕お入りになられているのです。今あなたが真実の心をもって、〔南無阿弥陀仏と〕光明の名号を称えるとき、如来は、あなたの頭を照らして、心のうちにお入りになって下さいます。弁栄の〔願い求める〕心に応じて現れて下さる如来も、宇宙間に最も尊き唯一の如来が、昔も今も、この娑婆世界と仏の世界と〔時空を超えて、私と〕関係を結んで下さっています。ですから、〔古の聖者方やあなた、そして弁栄が念ずる如来も〕同一の如来が在すのですから、あなたは〔他の〕すべてに超えて、如来を尊く、忝い〔との思いを込めて〕礼拝し、念じて下さいよ。私は光明の名号、南無阿弥陀仏を称えて、今実際に、真正面に如来が在すことをお念じ申し上げるとき、木像や絵像と思うのではなく、ただひたすらに霊体と対面している様な〔念いに至る〕ときは、ただ最も尊き尊崇の念が〔心に生じ〕、自ら頭をたれ、身命を捧げて仕え、礼拝〔いたします〕との念いが生じるのです。またさらに、〔如来の〕お慈悲の御顔を心にお念じ申し上げるときは、〔抑えきれないほどの〕欽慕の念いが沸き上がって参ります。いつもあなたが、お念仏する真正面に真の如来は在すのです。如来と共に、歩いているときも、留まっているときも、坐っているときも、横になっているときも、〔如来は常に〕離れず〔在す〕ことを信じて下さいよ。
解説
出典
『御慈悲のたより』上巻63~64頁、『辨栄上人書簡集』577~578頁、『ひかり』平成30年10月号9~10頁参照。長崎県富田家宛の書簡。掲載
機関誌ひかり第732号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」