禍にあいても、それについてまたさいわいを感ずるようにするのが霊化と申します。自分の心にてわざわいも幸におもいかゆるのです。たとえばあなたが病気に成りて、こころをいためるのでしょう。夫についてまたかようにおもうのです。今われに二つの大事なものがある。からだといま一つはたましいである。此二のうちどちらが大事と申せば、だんだんつめて見れば精神とからだとはくらべものにはならぬ。精神の方が大切である。そこでよしからだは病気になっても精神の方は大なる御めぐみによりて、御光によりて安らかでありますれば、病むからだについて病むことのない魂をかつてたしかめて置しこととおもうて、よろこぶようにしてはいかが。いつかからだは死すべきなれども、死ぬことなきたましいの帰着するところをさだめ置きし身には、まことに安心ではありませぬか。安心がなかったなら、からだと共に心までも病んでしまい、死なばこころまで共にしづみてしまうではありませぬか。よしや病気のためにからだは一室を出ること出来ぬとも、心は十方界に照りわたるように、如来のかぎりなき光明の中に住しぬるは、実にひろきことかぎりないではありませぬか。
現代語訳
禍に遭っても、それによって、また〔別に〕幸いを感じるようにする〔如来さまの育み〕を「霊化」と申します。自分の心の中で、禍も幸〔であるとの受けとめ〕に想いを変えるのです。例えば、あなたは病気になって、心を痛めているのでしょう。それについては、〔心を痛め、悩むだけではなく〕またこのように思う〔ことをお勧めするの〕です。今、私には二つの大事なものがある。体と今一つは精神である。この二つのうち、どちらが大事か、よくよく考えてみれば、精神と体とは比べものにならない。精神の方が大切である。そこで、よし、体は病気になっても精神の方は大いなる御恵と御光によって安らかである。〔そうである〕ならば、病の体に付き従って病むことのない〔霊化されたる〕精神を、前もって確かめておくことができると思い、喜ぶようにしてはいかが〔でしょう〕。体はいつか死ぬものですが、死ぬことの無い精神の帰着するところを〔あらかじめ〕定め置く身は、まことに安心ではありませんか。〔もし〕安心ではなかったならば、体と共に心までも病んでしまい、死ねば心までも共に〔闇へと〕沈んでしまうではありませんか。たとえ、病気のために、体は一室を出ることができなくても、あらゆるすべての世界を照らす如来さまの限りない光明の中に住む心は、実に広きこと限りないではありませんか。行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸です。
解説
出典
『御慈悲のたより』上巻一三七~一三八頁、病床にある尼僧(弟子宛)。弟子宛の書簡は、比較的厳しい文面が多い。掲載
機関誌ひかり第741号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」