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発熱の文

発熱の文 56 航海の譬え


 吾聖きによる友なる湯地夫人照子きみよ、この人生は数十年間の航海中にてあれば、まことに日和よき日に甲板の上に共に談笑し遊戯し運動し舞踊し、歓楽のなかに船の上なるを打ち忘れて過る日もあれば、忽ちにうってかわりて天候が変じて、今日は黒風を起し物すさまじき風の音、怒波は正に艦を顛覆せずば止まずと云う如きに至りては今にも我身を魚腹に葬らねばならぬばかりになりぬれば、昨日の談笑歌舞の声は変じて、悲鳴号泣の音となる如き実に六、七十年間の航路はいかに快楽なるか苦悩なるか惨憺たるか。ここに於て人生は快楽なりと謂える楽天観あり、また苦悩なりと観ずる厭世主義あり。而して人生は楽天というてきまりしことでもなく、また厭世と云う定まりもなかるべし。同じ一人にしても、時によりては楽天となりまた厭世となる。世界のために自己を約束せられるものはつまり世のためになやまされてしまう。
 人生の航路に大なるたすけとなるものは、人間以上の偉大なるものの力によるの外なし。


現代語訳

我が聖なる友、湯地家の夫人、照子のきみよ、この人生は数十年間の航海と同じことです。お天気のよい日に〔船の〕甲板の上にて、共に談笑し、遊戯し、運動し、舞踊するなど歓楽の日々であれば、船の上であることもすっかり忘れて過ごす日もあるでしょう。しかし、今日は忽ち天候が変わり、すさまじき嵐による風の音、怒るような波は、正に船を転覆させなければ止むことはないというような状況に至り、今にも我身は、魚の腹に葬らねばならぬという〔非常事態に〕陥ります。そうなれば、昨日の談笑と歌舞の声は、悲鳴と号泣の音と変わるのです。そのように、実に六十、七十年間の〔人生の〕航路は、快楽なのでしょうか、苦悩なのでしょうか、惨憺たるものなのでしょうか。この〔人生観の問い〕に、「人生は快楽である」という楽天的な考えがあります。また「苦悩なり」と観ずる厭世主義もあります。そのように人生は楽天にも、厭世にも定まるものではありません。同じ一人〔の人物〕にしても、時によって楽天となりまた厭世となるものです。〔物質的な〕世界の中に、自己を結び付け執着する者は、その世界の規定の中で、〔もがき〕悩んでしまうのです。
 人生の航路に大なる助けとなるものは、人間以上の偉大なるもの、〔物質世界を超越した〕力によるの外はないのです。
〔次号につづく〕

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『御慈悲のたより』上巻 「五十三」、湯地照子様宛。

掲載

機関誌ひかり第757号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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