光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 62 主人公を主我から本尊に


 吾人、自己の心中に、帰命信頼すべき本尊いまだ安置せざるむかしをしのぶ時は、まことに自ら恥じ自ら恐る。むかしの生れしままの我心情のあさましさよ。面にこそあらわれね、いかり、憎、嫉、慢、貪などのすべての罪悪の要素として心裏に見えざるなし。すべての煩悩の種子、内に伏在すればこそ機会にふれ縁に対して競い起り、己を害し他をなやめ、罪をつくること極りなし。
 さればこそ、『聖典』には「煩悩の毒蛇睡りて汝の胸に在り。黒蚖の室に在て眠るが如し」と。吾人の胸中に眠伏せるもろもろの毒蛇は、外界の刺激にふるれば忽ちに覚醒して罪悪を顕動す。かかる罪悪の巨魁を主我とは名づく。此の主我を主人公として我意、私欲、若しは主観に、若しは客観に、悪として造らざるなし。此の罪悪の源なる主我を中心とし本尊として過しゆかば、いつか迷いの里を出て罪悪の源を断つことを得べき。この主我を主人公として精神生活せるものを迷の凡夫とは云う。いまだ宗教の生命に入らざるものなり。


現代語訳

 私たちが、〔現在〕心の中に、帰命信頼するところのご本尊〔阿弥陀如来を、心の中心に〕安置していなかった昔を思い返してみると、まことに恥ずかしく、〔また〕恐ろしく感じます。その頃の、生まれたままの私の心情のあさましいこと。顔には現さずとも、怒り、憎しみ、嫉妬、高慢、貪りなどのすべての罪悪の要素が心の中にあるのです。すべての煩悩の種が、〔心の〕内に伏在しているからこそ、〔何らかの〕機会、〔何らかの〕縁に対して、〔それら煩悩が〕競い起こり、私を害し、他者に迷惑をかけ、罪を作ること、極まりない〔状態に至るのです〕。
 ですから、『仏遺教経』に「煩悩の毒蛇があなたの胸の中で睡っている。黒い毒蛇が、部屋の中に潜み眠っているようなもの」と〔説かれているのです〕。私たちの胸中に眠り、潜伏している多くの毒蛇は、外界の刺激に触れて忽ちに覚醒し、罪悪をむき出しにして行動を起こします。このような罪悪の親玉を「主我」と名付けているのです。この主我を〔心の〕主人公として我意・私欲の〔趣くままに行動し、〕あるときは自発的に悪しき行いをし、またあるときは外発的に悪しき行いをするのです。この罪悪の源である主我を〔心の〕中心とし、本尊として〔人生を〕過ごしたのであれば、一体いつになれば、迷いの里を出て、罪悪の源を断つことができるというのでしょうか。この主我を主人公として精神生活するものを「迷いの凡夫」というのです。いまだ宗教の生命に入っていない者をいうのです。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。

出典

『無礙光』二〇頁

掲載

機関誌ひかり第763号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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