光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 念仏の思い出を辿って

山本 サチ子

 朝からNHKニュースがアラートを発している。弾道ミサイルが北朝鮮から発射され北海道に落下するとのアラートである。実際北海道には落下しなかったと取り消しの知らせがまた流れた。朝の学童たちの通学や通勤時間帯のことで授業開始を遅らせたり人々の勤務時間の遅延にもなった。やれやれとの思いで少し遅めの朝食を済ませ外出した。
 マンションの立ち並ぶ広大な庭の歩道を通る。この庭には野外コンサート会場もあり、周囲が森林に取り囲まれている。場所のあちらこちらから鶯の鳴き声が聞こえる。道行く人が数人立ち止まり鳴き声に耳を澄ましている。ここは行きかう人々の憩いの場所でもある。「ケッキョ、ケッキョ、ホーホケキョ…」どんな慰めのことばよりもこの鶯の鳴き声は人々の心を癒してくれるようだ。昨年私はひかり誌に「この鶯の鳴き声をウクライナで戦争で苦しむ人々にも聴かせてあげたい」と綴ったが、いまでは世界中の人々にこのさえずりを分け隔てなく届けてあげたいと思う。皆平等に…

〈これまでの念仏〉

 無性に昔が恋しくなった。理由はない。ただ目まぐるしい身の回りのことを思い、自分はどんな生活をして光明生活に向き合ってきたのか、仕事に従事している頃は考える余裕さえなかった。仕事から解放された今だから昔を振り返りたいと思うのかも知れない。正直に言うと私は念仏を正座して称えることが出来なかった。定年を迎え時間の余裕ができたのだが今度は膝が痛い。ヒアルロン酸やコンドロイチン等を含んだサプリメントを服用した結果、これが何と効果を発してかなり正座が出来るようになった。だが調子に乗っているとまたいつ傷むかわからないため正座はほんの少しにして後は椅子のお世話になっている。
 勤務していた頃は仏壇にお茶とご飯をお供えしていそいそと勤務先に向かう日々であった。毎週土曜日も勤務があり今の社会体制とは労働条件がまるで違っていた。二人の子どもを保育園に預け急いで電車に乗る。こんな毎日であったからいつも「家事をしながらのながら念仏」であった。日曜日はたくさんの用事が溜まっているためここも駄目。そんな毎日であったがこどもが中学生と高校生になったとある土曜日の夕方、公開講座が板橋の淑徳ホールで開かれた。二人の子を連れてこの公開講座に参加した。講座の終了後に講師の河波昌先生と4人で少しの間歓談をした。あの時の河波先生のにこにこされた笑顔が今でも私の脳裏に焼き付いていて楽しい思い出として残っている。講座終了後、二人の子供は口を揃えて大きな声で言った。「参加したのだからはやくハンバークステーキ食べに連れて行ってぇ。デザートも食べたーい」…と。
 その夜、長男に公開講座の感想を聞いてみた。すると「今日の様に参加者が学生や一般の人たちと入り混じっている場合に焦点をどこにおくか河波先生も話しにくかったのではないかなぁ」との感想だった。妹は「むずかしかった」と一言小声で言った。確かに学園祭の日程の中での主催であるから入場者の顔ぶれはまちまちであった。しかし、にもかかわらず入場された方々が静粛に聴講してくださっていたことはとてもありがたいことだと私はそんな感想を抱いた。その後は子供の成長を機会に光明園の念仏会にも参加出来るようになっていったと思う。大学入学が決まり、長男を光明園の例会に連れて行くと入学祝として河波先生は息子に立派な「ドイツ語の辞書」をプレゼントして下さった。「先生の心配りがとても有難いね」と親子で語った記憶がある。

〈古いひかり誌を読んで〉

 河波先生の二〇一六年二月の法話の一部から
①「私達は一日一日が大事であり、日々の生活にお念仏を欠かすことはできません。仕事も勉強も大事。しかし念仏を忘れてはいけません。いくら学問をしてもそれは念仏の邪魔にさえなります。ひたすら深い念仏をすることが大事なのです。」
②「弁栄聖者は嘗て、宗祖の皮髄を熱弁されました。しかし、その内容を当時は理解されなかったし、今でもどれだけの人々に理解されているでしょう。私達は聖者の御教えと実践を世の中に広めていくことが使命です。」
 先生は常にこのことを繰り返し話されていました。先生はあまりつらいことは語りませんでしたが、ただ摂化院の三隅栄俊上人がお亡くなりになられた時は「バカだバカだこんなに早く逝ってしまうなんて」と深く悲しまれて「これからは残された私達で光明会を支えていきましょうね」…と茶話会の時隣の席にいた私に話しかけられたのです。「彼は大学で僕と一緒だったし実にたくさんの思い出があるのよ。残念です」と切ない言葉でした。
 私は最近そんな思い出が胸の奥から引き出されてくることが多い。そして古いひかり誌を再読して思うことは後悔ばかりがおしよせてくるのだがあの頃の自分は何も出来なかった。田中木叉先生の御宅に何度もお邪魔していながら何も出来なかった。質問する勇気もなかったし、たとえ質問をしても木叉先生のおっしゃることが分かっていた気がしていた。
 「念仏をなさいませ。そこから何もかも見えてきます」とそれが口癖であったからだ。私は木叉先生には緊張して何も言えなかったのだが、そんな時に先生の奥様がお茶やお菓子を出してくださったことが「救世主が現れたぁ」と正直にホットしたのだから……。今ならもう少し対応できたかも知れないのに当時の二十歳そこそこの自分には難しかったし今思うと大変勿体ないことであったと思えてならない。先生は「光明会をよろしく頼みますよ」と例会終了後には必ず話されていた。

〈結び〉

 何気なく10年前のひかり誌をパラパラめくっていると「子供と一緒に学びましょう」の覧が目に留まった。忙しさを理由にとばし読みをしていた覧である。改めて目を通してみるとそれは経典からの抜粋のお話しである。相手に応じたアドバイス(対機説法)他さまざまなお話しが載せられている。これなら子供と言わずに大人も愛読できるのではないか。難しい教義ばかりが説法ではない。解り易さが一番大切であると思う。これならば親子で話し合いや読み聴かせだって出来るのではないか? ひかり誌をなるべく多くの人達に読んで頂くためには必要不可欠な覧であると改めて感じた。この覧の良さはすべての漢字にルビが降ってあり低学年の小学生でも読める良さがある。今一番大切にして進めるべきは一人でも多くの人がひかり誌を手に取り購読してくださることだと思う。
 知識の具わった方にはつまらないと思えるかも知れないが、ひかり誌は大人から子供までと幅広い読者を対象にする。そこにも焦点をあてていく必要がある。一人一人が人格が違うのだから難しさがかなりある。スムーズに運ぶためにはやはりより一層、行事に参加することを念頭に置く。触れ合いの潤滑油となるものそれは「お念仏」以外にはない。あそこに参加して皆様と念仏がしたい。疑問点も話し合いたい。…と思える会場作りをしていくことである。本当はグループ別に分けたら良いのかも知れない。このような問題点が解決された時こそ先人のお上人様達の御教えが叶った時でありこれまで光明会を支えて来られた大先輩や各お上人様達に嬉しい報告ができるのだと信じて止まない。
 如来の光明は 遍く十方世界を照らして
 念仏の衆生を摂取して捨てたまわず   
であるから。            合掌

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