光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 長女と山菜

山本 サチ子

 知人から葉書が届いた。「年賀状を差し控えます。」年末になると毎年、訃報の知らせが届き驚きと落胆の気持ちでいっぱいになる。同時にこの方は良い人生を送り召されただろうか? 知人の相方を深く知っていたわけではないのでそんな思いにかられる。どの奥様も皆さん明るい方なのできっと楽しい人生を過ごせたであろうと思う。今年はそんな知らせが多かった。

〈旅立ち〉

 家族の死は残された家族にとって心の準備も出来ないまま先立たれたケースも多いのではないか。その家族は現実を受け入れがたい気持ちで葬儀やそれにまつわる行事をこなさなければならない。かつて私自身も身内を突然失い同じ思いに駆られた。私は姉の死から数年が経つが寂しい思いから今でも抜けきれないでいる。そんなときは出来るだけ楽しかった頃のことを考えるよう勤めている。思い出のシーンで思わず大笑いをしてしまうこともある。それだけ家族との楽しかったことが多かった。悲しみや寂しさを引きずってはいけない。「姉も元気のない妹であってはいけないよ」…と語りかけている気がする。思い出から思い至ることが多々ある。子供の頃は我が家はどうしてこんなにも家族が多いのであろうかと思っていた。親戚の子や身寄りのない親を亡くした子なども含めると大家族であった。「私の食べるおかずや洋服だって家族が少なければもっと可愛い洋服が買ってもらえたはずなのになぁ…。」
 そんな気持ちが頭をかすめることもあったが半面楽しいことも沢山あった。夕食後は皆でトランプ遊びやかるた大会など大人数であったが故に一段と楽しさが増した。我が家の寺ではその時代では養護施設などの社会体制が充実されてなかったため町役場から子育てを依頼されていた。それでなくとも兄弟姉妹の多い我が家であったのだが、父は更生保護司をしていて知らんふりの出来ない人であったこともあり気がつけば大家族になっていた。
 大家族の夕飯は賑やかそのものだ。おかずは焼きサンマ、大根、ニンジン、里芋、ごぼう、しみ豆腐等の煮つけである。サンマは15匹ほど焼く。家の中が煙で充満しないように七輪を外に持ち出して金網を七輪の上に載せその上で焼く。団扇でパタパタと仰ぐたびに美味しそうな匂いが当たり一面に広がる。回覧板を持ってきた近所の男子の高ちゃんが「今夜はサンマかぁ。うまそうだな」と言った。
 長閑な一日はサンマの食事で締めとなる。大好きな大振りのサンマは一人半分の割り当てなのだ。私はどうしても一匹が食べたかった。猫が側でニャアーンと鳴いた。「ミーコは煮干しと削り節だよ」と言ったがそれでもニヤン、ニャンが止まらない。家族全員のサンマの骨をストーブの上に載せ小鍋で軟らかくなるまで15匹の骨を煮つけ猫と犬にも食べさせた。愛犬ペルは煮物も旨そうに食べ私より大盛りご飯を食べた。      
 秋にはとろろご飯が多い。麦とうるち米を混ぜて少し軟らかく炊き上げる。三男坊の兄はとろろご飯が大好きで七杯も食べた。「おかずも食べないからそんなにご飯を食べるのだ」と兄は父に注意されていた。母はその様子をみて「頼もしいね」と言った。育ち盛りの中学生とはそんなものかも知れなかった。

〈山菜と姉〉

 長女の姉は福島県の郡山市に在住していた。私が埼玉の川越に住んでいた頃、姉は私に山菜つけを宅配便で送ってくれていた。山菜は(ヤマゴボウ、ぜんまい、わらび、笹竹、水菜、潤井やミョウガ付け、どくだみ茶)等である。笹竹は実家から近い布引山脈で採ったものだ。布引山脈は標高約千メートルで日本最大級の風力発電所である33基の巨大風車があります。
 頂上が平らで長く布を引いたような山脈は栃木県との県境まで続いている。こうした山で採れた山の恵を頂き私達は暮らしてきた。  
 子供の頃に食した山菜を長女は結婚後も川越市に住む私に届けてくれた。
 山菜は季節により多種類のものが採れる。その他にも秋には会津の林檎が届く。私は或る日、姉に「もう送らないで」と言ったがそれでもそれらは届いた。何度も断ると「これが私の楽しみなのだからね」…と言う。今にして思えば「もう要らない!」などと言わずに「ありがとう!」と言えば良かったのになあと思う。山菜は取ってきただけでは済まない。茹でたフキの皮をむき、塩付けにして保存するまでの手間は大変なものであったはず。仕事で忙しい毎日を送っていた私は自分勝手な一言を言ってしまったのだ。今では若い時分の至らなさを悔いている。
 定年後に、姉は旦那様と山形県まで車で何度も通い蕨やぜんまいを採って来るのだと話していた。畑仕事と山菜採りは姉の楽しみであった。山に入る時に「熊除けの空砲」を係の人が打ち上げてから皆で山に入るのだという。山形のひとは山奥で商売をするのには山菜やキノコ等(椎茸やなめこ)を作り大勢の人たちに取りにきていただくのだそうだ。生産者もそれを取りに行く人々もみなワクワクした気持ちがするという。そのような幸せなどその頃の私にはとうてい理解出来なかった。
 山菜は調理して食すまで塩抜きやら調理に時間を要する。時間に追われた毎日の私の生活から「もう要らない。送らないで」の言葉がでた。けれどもそれは今思うと心無い一言であった。自分勝手を今さら反省してももう遅い。遅いけれども仏壇に手を合わせて「ありがとう。南無阿弥陀仏」と称えずにはいられない。申し訳ない気持ちを南無阿弥陀仏に込めている。
 

〈結び〉

 共同体がこわれてしまっている現代社会は昔ながらの農業だけでは生活できなくなってきている。そこで地方の農家は山を利用し「山菜」を栽培して生活を営む所がでてきた。種や苗を植え付け成功するまでには数年を費やしたという。現地に行くと生産者との触れ合いもあり自然の中に身をおいて過ごす時間は幸せを感じると姉夫婦は語っていた。
農業も昔ながらの皆でやる(ゆい)などは消え機械化されてしまった。山菜採りの話を後になって聞き、改めて自然が癒してくれる力の偉大さに驚きを覚えた。「自分の人生は自分一人で決める」のではなく社会と共にが理想である。自然に溶け込むことは都会に住む人はなかなか難しい。けれども「庭に木を一本植える」ことや「プランターに種を蒔く」ことでも良いのではないか?
 自然との触れ合いさえ難しくなってきている現代社会だが一人一人の工夫で雰囲気を感じることが不可能ではない気がする。小さなところから「支え合う社会」が出来ていったら素晴らしいと思う。 
 とりとめのないことを色々と綴ったが自身は姉の気持ちさえ汲み取れなかった。相手の立場になり対応する気持ちに欠けていた。やはり自分勝手はどうしても出てしまう。それは昔も現在もあまり変わらない気がする。時々自分は念仏者としては失格であると思う。煩悩のかたまりのこの気持ちを少しでも正していきたいと日々の生活に込めているのだが精進しているのかどうか疑問である。日常の生活のせわしなさは時々周囲への思いやりに欠けてしまうからだ。条件が整わなければ相手を思いやる気持ちになれない。まだまだ念仏が本物でないからだ。しょんぼりして見上げた今日の青空が私を少し元気付けてくれた気がした。
 如来様、今日も私はいたらなかった気がいたします。明日は充実した日が送れますように… 南無阿弥陀仏

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