石川 ゆき絵
昨年暮れに夫が負傷し、公立病院での手術の順番を待っていることは以前にも書かせていただいた。ようやく順番がきて、夫は無事に手術を終えることができた。いまは退院して快方に向けて療養とリハビリに勤しんでいる。
そのことを、生業として営んでいるレストランのお客さんたちに報告すべく、ホームページに、シェフが手術を終え退院して快方に向かっていることと、ブラジルの医療制度(SUS)により無料で手術・治療をほどこしてもらえたことの感謝を投稿したら、レストラン再開を待ってくれているお客さんからたくさんのコメントをいただいた。
「シェフおめでとう」
「はやく治るよう祈ってるよ」
というコメントに次いで、
「俺たちの国のSUS(公立病院無料医療システム)は素晴らしいだろう」
「大きな普遍的で自由なシステム、SUS万歳」
のコメントもとても多くて、ブラジルのおおらかさとやさしさに改めて感謝を抱いた。
日本も健康保険や奨学金がなくとも、医療費も学費も無料になればいいのに、と思っていたら先日、ブラジル人が生活保護の申請をして受理された、という日本のニュースを見た。良かったなぁ、とうれしく見ていると、その報道に対してかなりの数の異議コメントが寄せられているのが目に入った。
「日本で生活できないなら国に帰れ」
「外国人への生活保護やめろ」
「外国人に生活保護受給をどんどん受けさせると日本の財政は圧迫する(怒)」
「何故外国人を日本の税金で養わなければならないのか」。
悲しくなった。うちのレストランへのコメントには「日本に帰れ」などひとつもなかったし、ブラジルにおいては外国人であるわたしの娘も10才からずっと公立校にて無料で教育を受けるなか、否定的な言葉は一度も浴びたことがない。ちなみに、うちのレストランのお客さんや娘の通った中・高・大学の生徒のなかに日本人・日系人はひとりもいない。
日本人とブラジル人の、この考え方の違いは一体どこから来ているのかな!? と考えた。
庭の木に果物が実っていたら、それはあなたのもの?
ブラジルでは、庭の果物は自分の物、という考え方をあまりしない。うちの庭にやってきてアセロラやカシューナッツをもいでいく人は多いし、彼らは許可すら求めない。わたしも人ん家のオレンジをもいで食べる。
そういえば、四つ角にあるガソリンスタンドに『通り抜け禁止』って書いてあったな、日本は。ブラジルでは角のガソリンスタンドを車も人もどんどん通り抜ける。
「所有」という概念が、ブラジルと日本とでは全く違うのだ。あそこはファビオの土地、この脚立はわたしの物、それはそうなんやけど、うちの脚立はもう長いこと我が家にはなくて、又貸しに次ぐ又貸しで今誰の家にあるのかもわからない。貸し借りは当たり前で、借りた人は貸してくれた人に返しに行かないのがここでの常識。わたしは脚立が必要になった時には、その在り処を探して回収に行かねばならないことも、ここでの常なのだ。
脚立はわたしの所有物ではあるが、脚立がなくてもわたしは生きていける。所有、ということについてよくよく考えてみたら、これがなくては生きていけない、という種類のもののなかで、わたしたちに所有できるものはひとつもない。
空気も水も食べ物も地球からいただいている。その大いなる恩恵については当たり前のように受け止めているくせに、わたしたちは塀や壁や国境をこしらえて、これはオレの物だ、お前はよそ者だ、とガタガタ言う。我他彼此と区別し対立する。
ところでわたしの故郷は、大谷仙界上人と同じ筑豊なのだが、五木寛之氏の小説『青春の門・筑豊編』の中で好きなセリフがある。
「なんちかんち言いなんな、理屈じゃなか」。
すっきりした川筋気質をよく表している言葉だ。理屈じゃなくて、なんなのか。うまく言葉にしたいな、と心のなかを探っていると、ふと思い出したのが、岡潔さんの『情緒』についての言葉。岡潔さんは弁栄聖者に帰依なさった偉大なる数学者だ。
赤ん坊がお母さんに抱かれてお母さんの顔をみて笑っている。このあたりが基になっているようですね。その頃ではまだ自他の別はない。母親が他人で自分は別人だとは思っていない。自他の別なく時間というものもないから、これが本当ののどかというものだ。それを仏教で言いますと『涅槃』というものになるのですね。世界の始まりというのはそういう状態ではないかと思う。のどかというものは平和の内容だろうと思いますが、それは何かというと情緒なのです。情緒が先に育つのです。矛盾ではなく初めにちゃんとあるのです。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。
(岡潔・小林秀雄対談集『人間の建設』新潮文庫、一〇八~一〇九頁)
情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。
(『人間の建設』四十五頁)
なるほど、そうか。分別がつく以前、最初っから在るのが『情緒』。それを思うと、故郷の方言であるちょっと乱暴な言葉「理屈じゃなか!」が、しっくりくる。
人が本来もっている情緒の声は「外国人に施すな」とは言っていない。そこには外国人だからという垣根もなく、おなかすいとる人にはごはんを食べさせちゃろう、困っとる人は助けよう、という思いだけがある。ほら、お弁当忘れてきた子にみんなで少しずつおかずを分けた子どものころの遠足の時みたいに。そこに我他はない。
岡潔さんは光明主義について、こうも仰っている。
仏教に光明主義というものがありますが、それは中心に如来があって自分があるというのがはじまりで、私はそれが本当だと思っています。全知全能の大宇宙の中心である如来と、全く無知無能である個人との間になぜ交渉が起こるかというのは不思議なことかもしれない。しかし全知全能なものは無知無能なものに、知においても意においても関心を持たない。情において関心を持っているのです。全知全能の者から見れば無知無能の者は珍しくて哀れで可愛いのではないか、そこで交渉が起こるのではないかと思うのです。とにかく知がいかに説いたって、情は承知しないということが、数学でわかったとすれば、数学という学問の大きな意味にもなります。
(『人間の建設』一三〇頁)
知識や理屈ではなく、情において、しょっぱなの奥底にある純粋な心。その情緒に添って言動すれば、ガタガタ言うて隔てるばかりの発想はなくなるだろう。
もっと情緒に耳をすませなければならんなぁ。否、耳をすませるのではなく、最初っから在るんやから、純粋反応のままでいい。目の前の人が困っている、よし助けよう。たったそれだけだ。そこには妬みも意地悪も損得勘定もない。
おおみおや様がお弁当を与えてくださっているのは日本人だけではない。「如来の光明は遍く十方世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」。それは理屈ではなく真理なのだから、わたしはもうがたがた言わない。
さて、今日は高いところの枝を切りたいから脚立がいる。いまから探しに行こう。又又又又貸しぐらいされているかもしれない。いろんな家を次々に回ることになるだろう。人ん家を訪ねるたびに果物をもいで持ち帰ろう。
南無阿弥陀佛