光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.7 鉢伏山親子別時の思い出

花岡こう

「お浄土の様に草花の美しい鉢伏山で親子別時が始まったので参加しませんか」
とお誘い下さったのは、お世話係の池末茂樹様でした。小学校2年生の伸明と1年の由起を連れてはじめて参加したのは昭和38年の夏でした。鉢伏山は松本の駅からバスで約1時間程登った標高1,930メートルの亜高山植物帯にあり、草花の宝庫でした。

松本駅に篤信家の多田助一郎様が出迎えて下さいました。池末様の仰しゃった通り、バスで到着すると、日光黄菅・柳蘭・升麻・風露草等数え切れない花が一面に咲き、鶯の声が出迎えてくれました。首に鈴を着けた山羊が、りんりんと走り、向こうの丘の上には放牧された牛達が閑かに草を食み群がっていました。念仏道場鉢伏柴山荘にはまだ電気がなく、ランプ生活でした。朝は3時半に起き、毛布をすっぽり被って、御来光を拝みに行きました。

茣蓙の上に坐り藤本浄本上人の拍子木に合わせ、お念仏しながら御来光を待ちました。鉢伏山で拝む御来光は素晴らしく、幾重にも霞む山脈の向こうに朝日が昇ると、如来様が現れて下さったかと思う程の感動でした。。全山の露がいっせいに輝くのです。

まだ始まったばかりで、時間の配分もゆるやかで、藤本上人は、お念仏がどんなに有難いことかを、夜遅くまで、身を乗り出されて御説法下さり、座布団から半分位滑り落ちたりなさいました。子供達は遊び疲れてその辺にバタバタと寝入ってしまう事もありました。その頃は参加者が多く、一枚の布団へ親子で寝る事もありました。藤本上人はとてもお優しく、子供達が光るお頭をそっと撫でたりしても、にこにこしておいでになりました。

松本光明会の方達が、谷間で青竹を継ぎ、流しそうめんをして下さった事がありました。藤本上人が一番上にお立ちになり、そうめんを流すと「あっ、もったいない」と箸でそうめんを止めてしまわれるので、下の子供達から「流して下さい」と言われ、大笑いの事もありました。

多田助一郎様は、鉢伏山が大好きで、御浄土の様なこの美しい山で御別時をしたいと思い立たれ、道普請をなさり、道場を昭和32年から建て、35年にはバスも通し、松本光明会の方達の御奉仕をいただき親子別時を実現されたと聞いています。折角娘時代にお念仏の御縁を戴いても、大抵の方は子育ての間にお念仏を離れてしまう、それは惜しいので、子供も大自然の中でお念仏の御縁をいただき、親達のお念仏も繋がる様に、との思いで親子別時を思い立たれたと伺いました。

多田様は漢詩もよくなさり、清らかな澄んだお声で自作の詩吟を聴かせて下さいました。よく首から大きな天眼鏡を下げていらして「一寸おいでなして」と大きな声で呼ばれるので言ってみますと、小さい野の花を拡大して見せて下さり、
「この一輪の花を見て下さい。ここに素晴らしい大宇宙があるでしょう」
と仰しゃいました。その不思議な造形の美に私共もとても感動しました。その頃は5日間のお別時でしたので、私共も念仏の間に奥の山や展望台まで散策しました。

椎尾弁匡先生の御寄進と伺いましたが、途中から自家発電所ができ、電灯がつく様になりました。藤本上人にはご高齢にも拘わらず、本当に熱心に遠方から鉢伏山へ御指導においで下さいました。

食事のできるすぐ下の山荘が火事で焼失するという事があり、一時お別時がお休みとなりました。

その後、八木季生上人の御指導を頂き、19年間に亘りお別時が続きました。足利千枝先生をはじめ、中牧淑子様・内藤規利子様・伊藤力様方が熱心にお世話下さいました。静岡の友田上人も毎年とれたての美味しい桃をどっさり車に積んでおいで下さいました。

八木上人の子供達への御法話はとても楽しく身にしみて親達も熱心に聞き入ってしまいました。八木上人は鉢伏山山頂の真っ暗なコンクリートの展望台の中でお一人で徹夜念仏をなさり、朝露に濡れて清々しいお顔でお戻りになることもありました。

小学1年生で参加した娘が結婚して、その子の由美が小学5年生まで参加させて頂いた平成7年8月、会場の老朽化等もあり、とうとう最後の会となりました。藤本浄本上人と椎尾弁匡先生の御名前が並んで刻まれた顕彰碑、そして多田助一郎様の頌徳碑が、念仏道場をも見守る位置に建てられていました。今は子供達の声のない鉢伏山の夏草の中でこの2基の碑がひっそり佇んでいるかと思うと、さまざまな重いが胸を去来します。

親子別時をとても大切に育んで下さった上人方、また沢山の先達の方々の事を思うと感謝の気持ちで一杯になります。

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中央が導師の藤本浄本上人、左隣は世話役の池末茂樹氏。右隣は多田助一郎氏。

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