祢次金 文子
戦時下の少女時代・救われた命
終戦を目の前にした6月、静岡市内は突然の大空襲により、一夜にして全てが灰と化し一面が焼け野原となってしまいました。
当時10歳(小学校5年生)の私は、家族で安倍川の河原目指して必死に逃げましたが、焼夷弾がバラバラと落ちてきて、あちこちに火の手が上がり、私は恐ろしさに足がすくみ、近くの防空壕に逃げ込みました。そんな私を母が引きずり出すようにして走りました。100メートルも行かないうちに、その防空壕の入口に焼夷弾が落ちて火の海となったのです。母の「文子に同情してそのまま防空壕に入っていたら全員焼け死んでいたのかもしれないね」と言った言葉が忘れられません。
夜が明けるのを待って、まだくすぶり続けている建物とか男女の区別がつかない程、黒焦げになっている死体の中を私たちは黙ってただひたすらに、父の実家を目指して歩きました。この光景は65年を過ぎた今でも脳裏にしっかりと焼き付いていて、一生涯忘れることは出来ないと思います。
母の入信・光明会とのご縁
母は幼くして両親と死別して、弟(長男)が戦死していましたから、どんなに辛くても泣いて帰る所はありませんでした。そんな母の姿を見ているのはとてもせつなかったです。
母は心の拠り所を求めて、ある新興宗教に入信しましたが、何か心にぴったりとこないと言って3ヶ月程でやめてしまいました。
暫くして、今は亡き藤田さだ様と出会い、とても熱心にお念仏を勧めて下さり、母の心はだんだんとお念仏の方に傾いていったようです。
法伝寺様とのご縁・佐々木為興上人のお話
昭和25年11月、藤田さだ様から、駅前の法伝寺に佐々木為興上人のお話があるので是非お出かけ下さいとお誘いがありました。母は私を連れて初めて法伝寺の門を潜ったのです。一番前の席に座り、為興上人を見上げますと、でっぷりとして、やさしい笑顔はまるで布袋様のようでした。
【法話の一部分】
みなさん、私たちこの五尺の体がどれだけ大切か・・・例えば蚤がたかると指で押さえてぐるぐると捻ります。これで許してあげればいいのに、更に親指と親指の爪の間に入れて「プッチン」と音がするまで殺します。蚤に少しくらい血を分けてあげても良いではありませんか・・・
前後のことはまるで記憶が無いのに不思議とこの場面だけが鮮明に残っています。私は何も分からないけれど、そんなものかなーと聞いていました。
初めての別時参加
翌年、母は藤田様たちと一緒に初めて信州の唐沢山別時に行くことになりました。でもその費用が無くて自分の生命保険を解約して行きました。当時の苦労話はその後、ずいぶんと聞かされました。
私は昭和29年7月、青年会のメンバー7、8名と今は亡き友田達明上人に引率されて、京都の古知谷別時に初めて参加致しました。京都の駅前にはチンチン電車が走り、大原街道は砂利道で田舎のバスがガタゴトと砂塵を上げて走り、私たちはまるで遠足気分でした。ところが別時が始まると足は痛いし、眠たいし、それは大変でした。でもこの貴重な体験が私の信仰の原点だと思っています。
人生の岐路・よき師(友田達明上人)の導きを得て
この後、私は思いがけない病魔におそわれて夢も希望も、その上職まで失い、青春時代の私は人生のどん底生活を味わうことになったのです。この時、やさしく手をさしのべて下さったのが達明上人ご夫婦でした。達明上人も若かった頃、病弱で苦しんだ時期があり、昭和八年頃、信州にて光明会と出会い入信したとお聞きしました。当時は檀家でもなく、ただ光明会員なのに、家族のように暖かく接して下さり、涙の出るほど有り難く、この時のご恩は決して忘れることはありません。
光明会の黄金時代・エプロン部隊の活躍
昭和20年から30年代は「青年光明会」「日曜教会」「朝参り」「月2回の例会」そして毎年2~3回以上の「別時念仏会と法話の会」を各お上人様方をお迎えして、いろいろの行事を開催して下さいました。40年代に入ると「熱海別時」「富士山別時」を開催して全国から大勢の参加者が集まりました。別時の時は当番制でメンバーの方は全員が真白な割烹着をい付けて、参加者のお世話に当たっていました。佐々木隆将上人はこの姿を見て「静岡のエプロン部隊」と名付けて笑っていらっしゃいました。この「エプロン部隊」の存在はその後、有名となったのです。
達明上人はまさに、「身・命・財」を投げ打って光明会の黄金時代を築き上げて下さいました。達明上人亡き後は達祐上人、そしてご子息の達弘住職と三代に亘って、光明会のお世話をして下さり、またご指導を頂いて参りました。
偉大なる力・母親あってこそ
振り返って見ますと、私は家庭の中での母親の存在が子供や、その周りの人たちに与える影響はすごいと思っております。信仰嫌いだった父がたった一度唐沢山別時に参加して、今は亡き兄も法伝寺お五重相伝にご縁を頂き、弟も50年ぶりに「法のつどい」に参加しました。現在は兄嫁がお念仏を相続しています。
母親がお念仏のご縁を頂きますと、自然とその輪が広がってゆくような気が致します。尊いお念仏のお陰で私たちは力強く生きることができました。
その母も平成13年、93才でこの世を去りました。
了