光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.19 もう少し、こっちで

阿部 久米

唐突なことですが、ごくごく親しい友人に今年こんな年賀状を出しました。

あっち(浄土)でも、こっち(この世)でもいいのですが、もう少し、こっちでもいいかなーと思っています。

お元旦早々から電話が鳴りました。病気がちな人は「そんなに寂しいこと言わないで」と。そして私より元気な人は「今年一番いい賀状だった」と笑ってくれました。

他意はなかったものですから、受け取った人それぞれの感想にちょっとびっくり致しました。ちなみに同級生は皆、今年中に喜寿を迎えます。

ご存知の方も多いとは思いますが、光明園では月二回、第一日曜日の「一行三昧」と第三日曜日の「念仏と法話」の会が行われています。出なくてはいけないとか、お念仏しなければいけないとか強制されたものは何一つありません。それが私にとって十年以上も続けて伺えた理由の一つかも知れません。

初めて河波先生にお目にかかりましたのは現在のような立派な道場ではなく「雨もりがする」とおっしゃっていた旧いお宅でしたが、奥様が「お念仏に満ちあふれている場所」と言ってらしたのを思い出します。都内とは思えない静寂でゆったりした感じでした。

その前に私事ですが、先生にご縁をいただける切っ掛けを作って下さったのは、宮崎の自然寺の住職である岩崎念唯上人です。

念唯さんとは二十五年も前の事になりますが仏教大学の同級生で、と言っても母親のような年齢なのですが、東京で「師」と呼べる方を探して欲しいと生意気な事を頼んでおいたものですから。

何年もたったある日、突然の電話で素晴らしい方がいらっしゃるから逢いに行きなさいと言うのです。どう素晴らしいのか、どんな方なのかわからないままに飛んで行きました。何で「師」と呼べる方が欲しかったのかと申しますと「宗教は何ですか」という質問の答えを探していたからです。

何故、仏教大学に行くようになったのかと振り返ってみてもよくわかりませんが、多分五十歳を過ぎた時、こんな生き方でいいのかと漠然とした思いにかられたことがきっかけだったと思います。五十歳は女の人にとって精神的にも身体的にも岐路に立っていると思います。精神的には子供達が自立した後の「空の巣症候群」に、身体的には老いとかを意識し、更年期障害等も加わって鬱々と暮らす時期になるのです。

私はその鬱々と暮らす日々に耐えられませんでした。私は何をしたかったのか、何をしたら虚しくないのかと思った時に、本を読んでいる時が一番好きだった事に気づきました。それならもう一度大学に行こうと思いました。いつも単純な発想です。専業主婦ですから通信教育で仏教大学三年に編入致しました。ダンボールいっぱいの教材がドサッと送られてきた時には正直どこから手をつけていいのやら胃が痛くなりました。

高校、大学と何で勉強をしなかったのだろうと悔やまれました。

この通信教育はまず課題のレポートを提出し、合格したら試験を受け、こちらも合格点がとれるとはじめて単位として認められます。それとスクーリングを受けなければなりません。

仏教学科を選んだのは全く知らない分野であり、当時、高齢化社会という言葉が耳につく様になっていましたので、単に惚け防止には難しい事に取り組んだ方がいいと思ったに過ぎなかったのです。

まず、「空とは」と言う課題を手にした時は「えー」と絶句しました。更に哲学では「範疇」についてだったと覚えていますが、もうお手上げです。主婦に哲学はいらないと愚痴ってみてもレポートを書かなければ試験は受けられません。

学生時代はサッカーしかしなかった主人がアドバイスしてくれると言う思いがけないことがあったりして、何とか二年間で単位は全部とりました。

ただ卒業論文を書く気になれなかったものですから、卒業はしてもしなくてもいいと思い、娘二人が続けて結婚、出産と言う多忙な日々にかまけておりました。しかし、やっぱり区切りはつけようとは思っていました。そして提出した卒論ですが、たかが一介の孫のいる主婦が書いたものですからお粗末きわまりないものだったと思います。

最後の面接試験で教授は「宗教とは何ですか」と問われました。卒論の内容を問われるとばかり思い込んでいましたので頭の中が真っ白になりました。宗教と言っても仏教をほんの少し学んだだけですので、「私にとって、心の依り所になり得るもの」としか答えられなくて困惑致しました。ただその時の教授の顔が軽蔑に満ちていたように思えて、あの苦笑は何だったのだろうとかなり落ち込みました。教授の求めていた正解は何だったのか、それからずっと棘のように私の心に突き刺さったままでした。

河波先生に初めてお逢いした際に不躾な質問をしてしまいました。

「宗教って何ですか」と。その問に先生は「人生の全てに関わること」と即答して下さいました。嬉しかったです。根が単純、明快が大好きな私です。

「そうなんだ」と感動しました。それがどんなに奥深い言葉であったかも気づかずにです。

先生が御立派で偉い方だったなど何一つ知りませんでした。もし存じ上げていたならお目にかかる勇気はなかったと思います。そしてその時に「入我我入」「感応道交」等のお話も伺いましたが、今のお念仏に繋がっていく事にはなかなかなりませんでした。

仏教はかつて学んだ文学部日本文学科と同じように文学部仏教学科と言うくくりの中の一つにすぎず、信仰の対象には程遠いものでしたから。

宗教は決して単なる観念論(頭の中だけで考えられたいとなみ)ではありません。それは宇宙の事実(真実)そのものに触れ、それは経験してゆくところに成立してゆきます。

と「祈り(念仏三昧)の原型その三」にも述べられておりますが、このところのご法話も「祈り」や「念仏三昧」の起源、経典等、あらゆる面からの高次元の内容のものですが少しずつ理解できるようになりました。何となく腑におちるとしか言いようのない情けなさではありますが…… 
では肝腎要のお念仏はと言いますと、初めから声を出して称えることなどできません。木魚も心の乱れが出てしまい、いろいろな面に撥が当たるので強かったり弱かったりと一定していないものですから動いてしまいます。私はそれを木魚が逃げると言っていました。雑念だらけです。時々、先生のお念仏をしていらっしゃる姿を盗み見するといった失礼なことを致します。見事です。自然体ですのに隙がないのです。

余計な事ですが、父が北辰一刀流の免許皆伝で戦前は道場を持っていたようです。私が子供の頃、よく庭で切り返しの相手をさせられました。稽古用の小振りの竹刀ですから何の変哲もないのですが、父が構えると小柄な人でしたが大きくて、一分の隙もないのです。胸元にピタッと構えられると一寸でも動いたら突き刺さる気がして金縛りに遭ったようにさえ感じたものです。その気合いのようなものを先生にも感じるのです。

先生のは集中なさっている気と言うか、呼吸なのかわかりませんが、雑念だらけの私には、時々父と向かい合っていた時のような感覚さえ覚えます。

雑念も気づいたら如来様に向けていくことが大切であり、一点一点に集中していくことで自己が無くなっていくのがお念仏であるとの事ですからそうなるように努めなければなりません。筋道たてて、何故お念仏ができるようになったかは証明出来ないのですが。

いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん。とてもかくてもこの身には思いわづらふことぞなきと思ぬれば死生ともにわづらいなし。

という法然上人の御詞はとてもかくてもこの身にはできることではありませんが、先生の許でお念仏が出来ましたら、もう少し「こっち」に居たいと思うのです。

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