宮腰 悦子
私はこの「ひかり」誌に書かせて頂くような立場にあるものではなく信仰家でもありませんが、お日さまも神様も仏様もキリスト様も大好きと言う種類の人間の一人です。そしてここに書くことを勧めてくれた人は、ためらっている私に、「ひょっとして書くことによって、あなたがかねがね知りたがっていたことに答えて下さる方が現れるかも」と言いました。その一言でお引き受けすることを決意した次第です。
ところが、締め切りと言われた日の前日に発熱し、その上、こんな内容で良いのかどうかとまだためらっていました。するとその日の午後に「ひかり」8月号が届けられました。パラパラとページを繰っておりますと、熊野好月と言う女性が書かれた一文とお写真がありました。
「あら、好月さんだ」。母(故人)からよく聞いたお名前で、母が神戸でお会いした時のことを話に聞いたのを思い出しました。そして文章を読み進むうちに恒村先生と言う京都のお医者様の名前が出てきました。50年か60年前に私はこの人にお会いしているのです。小学生の頃、伯母(母の姉)に連れられて京都のご自宅に伺った日のことを正確に覚えています。光明会のことでは人一倍熱心だった伯母は随分お慕いしている様子でした。もうこうなると半世紀が一変に吹っ飛び、まさにタイム・スリップです。
更にもう一点、この本の中に「信楽」と言う言葉が良く出てきます。実はこの「二文字」に私は限りない懐かしさを感じるのです。私は3歳から18歳まで滋賀県の信楽町にある信楽山浄観寺で育ちました。母の実家です。
神戸の戦災で父も家も失った私たち家族(母と子供5人)は戦後の苦難の多い生活をここでスタートしました。母は独立独歩の意志が強く、自分の思う子育てがしたいと、実家の手助けを求めずに5歳の兄と3歳の私に留守番をさせていました。勿論、住職の叔父一家は暖かく遠巻きに見ていてくれるのが良くわかっていましたから何の不安もないのですが、あの時代の疎開家族ですから、遊具もなく、退屈極まりない生活でした。
そこでいきおい外遊びとなり、近所の大きいお兄さんたちと山遊びをするうちに運動神経抜群のお転婆娘となりました。そして心の中で大きくなったら仙人になりたい、と真剣に考えていました。さて、雨の日は悲惨です。畳の上でゴロゴロするのみで遊ぶ物、紙も鉛筆もありません。仕方なくコッソリと本堂に入り、お経の本の文字を眺めたり、それをアコーディオンみたいにして遊んだりしていました。漢字をじいっと見つめると言うこの体験が私を文字の虜にしてしまいました。数字や漢字は意味の他にも強い力を与えてくれ、時として助けてくれることもありました。
さて、「ひかり」誌の中の好月先生、恒村先生、信楽の3点セットが、私に子供の頃のエネルギーを取り戻させ、私に筆を握らせる勇気を与えてくれました。
私が小学生だった頃、浄観寺ではよく光明会の集いがありました。夕刻7時頃から8時半頃までで、最初は本堂でお念仏、その後は奥座敷で茶話会でした。私は母と共にいたくてたいてい同席していました。檀家の人たちが参集され、私は座布団を運んだり、小間使いをしていました。皆さんに良く働くとほめられることがうれしくて。
しかし、本堂でのお念仏は正直言って退屈でした。しかし、仏様のお顔を眺めながら「どうして日本人らしいお顔でないの?」「おじさんやおばさん達、真剣な顔をして拝んでおられるけど幸せなのかな?」「死んだらみんなどこへ行ってしまうのだろう?」「お念仏さえ称えていれば良いと言うけど、本当にそれでいいのかな?」等々頭の中で考えていました。
私が最も楽しかったのは『如来光明礼拝儀』の中にあった何曲かの歌でした。叔父は当時としては相当無理をしてオルガンを購入しました。いつも母がオルガンを弾きます。皆さんが楽しそうに歌います。私は昼間、こっそりと本堂に忍び込み、音符を見てオルガンでメロディーを追い、大人と一緒に歌えるようになりました。あれから50年以上も経った今でも5曲くらいは歌えるのですから凄いことですね。
その後、18歳になった時、私は神戸の会社に就職しました。新しい生活での日々の暮らしに精一杯で、仏様の世界とは一線を画するようになりました。
「お母さんにはお母さんの宗教があり、私には私の宗教が……と言うよりは私は考える人でありたいの」と。
母とずうっと一緒に行動していた私の変化を母はきっと心の中で悲しく思っていたに違いありません。
私が22歳で結婚を決めた時、充分な嫁入り支度ができません。そこで母は絹の布に描かれた観音様(座像)をきちんと表装して私に持たせてくれました。
この観音様は私が9歳の頃、たまたま母が虫干しをしている品々の中から見つけたものでした。
「わあ、綺麗。このネックレスのこの色!」と私は驚きの声をあげました。生まれて初めて見る和絵具のみどり色。母は私がこの絵が好きだと思ったに違いありません。そして私を観音様に繋ぎ止めておきたいと言う母の願いを私は察知していました。
この時の母の話です。
「これはあなたのおじいさんから、私が結婚する時に頂いたもので、たいそう偉いお方が描かれたものだから大事にするようにと言われた。現に戦火に焼かれないで私たちと一緒にいて下さる。ひょっとしたらお守りして下さっているのかもしれないね」。
祖父、山添諦玄は1870年の生まれで、知恩院の布教師として西日本を担当していたそうです。県下の浄土宗の纏め役もしていて、幅広い人脈があったそうです。
1942年亡くなる寸前のこと、お布団に正座して、居並ぶ檀家さんに深々とお辞儀をして、「ありがとうございました。今から私はお浄土へ旅立ちますが、実は神戸におります娘、春枝のお腹の中には赤子がおりますので、お葬式には春枝を信楽に呼び戻さないで下さい。この子のことが気になりまして……」とご挨拶したと言うことでした。
私の命を生まれる前から気にかけてくれていた……誠に有り難い話ではあるのですが、重荷をしょった気がしました。そして1942年1月26日に祖父は亡くなり、38日後の3月5日に私はこの世に生を受けました。後年、「祖父からの孫へのメッセージは何だったと思う?」と言う私の質問に対して、母は「心眼を磨け」だと思うと即答しました。重荷は嫌ですが「心眼を磨け」だけはいつも私の側にあります。
さて、タイトルにあります「奇跡の観音様」と人から言われるようになるのは、30余年後のことであります。そして、ずっと抱いてきた疑問と言うのはこの絵を描いた方がどう言うお坊様かと言うことであります。
落款には「偏依辨聖」「佛師の?」とあります。よほど辨栄聖者と言われていた山崎辨栄上人を崇敬したお坊様だと判ります。
描かれた観音様の気品高い神々しいお姿は、前に立つ人の心を清らかにしてくれ、凛とした風格です。
その後、私の身には様々なことが起こりましたが、本題の「奇跡の観音様」にまつわる出来事についてお話します。
結婚後、私は3人の子供に恵まれ、双方の母親を看取ると言う人生の本業以外に「お話おばさん」になっていました。当家の子供達と周囲の子供らのために始めたストーリー・テリングの世界の活動はどんどん輪を広げ、はや37年になりました。
これは戦後の大変な時代に町内の子供たちお集めて「くもの糸」、「壺坂霊験記」等の紙芝居をしてくれた住職(叔父)の影響です。話の内容はよく理解できない幼児期でしたが人間に対する絶大な信頼をよせられたのです。
結婚後、夫が会社員であった関係で転居を重ねること十回以上、高度成長期と言うこともあって外地にも15年間(ヒューストン5年、ニューヨーク10年)住みました。しかし、ありがたいことに何処に居ても、志を同じくする友人に恵まれました。
さて、ニューヨーク在住中の1996年の事です。子供達は成人し、日本に帰っていました。当地でもお話、紙芝居、人形劇にと余念のない頃でした。或る日、突然に腰が痛くなって動けなくなりました。夫が知人から聞いた話で、広島から来ている日本人の男性で整体の腕が良いと評判の方がいるとのことでした。早速訪ね、Fさんに巡り会いました。
(次号につづく)