山本 サチ子
故郷の福島から上京し、大学の寮に入寮するため私は姉と買い物の準備で大わらわでした。布団や整理ダンズ等を購入して夕方に姉は自宅に帰りました。一人になり少し荷物の整理をしていました。しばらくしたら学生課長と名告る男性が事務局の方と入寮の点検に見えて私の荷物を見るや否や「君は大学に嫁に来たのか。このタンスはお嫁に行くとき持っていくサイズだからすぐに交換してもらいなさい!」大きな声で注意されました。その時私は思いました。田舎の人達は近所が遠いから大声で話すけれど東京の人も大きな声で話すのだなぁ・・」と。
その夜、今夜は誰も知らない土地でこの3人用の広い部屋で一人かと思っていたら夕方遅くに今夜はもう一人入りますと係の方が女子学生を連れてきました。その人は「3年編入で入学します。よろしくお願いします」と挨拶を交わしその晩、私達はお互いに打ち解けるのに時間はかかりませんでした。初めて出会ったその彼女は何か不思議な雰囲気の持ち主でした。ガッシリとした風貌と話す内容はなんだか面白い愉快な人で、今日初めて出会った人とは思えない昔なじみのする人です。授業が始まり学園生活が始まると、3年編入の先輩は周囲の人達からすぐにあだ名がつけられ「番長さん」と呼ばれました。彼女はとても愛されていました。
光明会への誘い
大学生活もやっと慣れてきたある日のこと、番長さんから「お念仏の会があるのだけれど参加してみませんか」と誘われました。年輩の人も若い人も両方いるし、何よりもお上人の法話がなかなかいいので参加しないかとの誘いでした。大好きな番長さんのお勧めならきっと楽しいに違いない。微塵も疑わずそれどころか私はルンルン気分で舞い上がっていました。私は東北の寺の娘でありこれまでにお経や念仏には抵抗がなかったのです。すぐさま「OK」の返事で話がまとまりました。
数日後千葉県松戸市「五香善光寺」さまの開催で1泊2日の別時念仏に参加しました。
初日は別時に関する全体説明や法話等で無事終了です。翌朝、起床の太鼓が「ドーン」となったのでびっくり仰天です。早朝、眠い目を擦り木魚をたたき初めて数十分、もう足の痛さと眠気とに襲われ耐えられない。これは大変なところに来てしまった。こんなに足が痛むのなら一番後ろに座って足を伸ばせば良かったと思ったがもう手遅れです。「番長さんたらどうして私をここに連れて来たのかしら?こんなに大変とは思わなかった」どんなに後悔してももう今となってはジタバタしても始まらない。その場から逃れたい私はあのお線香が燃えて無くなったら別時も一旦休憩になるだろう。それまで頑張ろう。そう思い気を取り直しました。線香の煙が無くなりやれやれと思った次の瞬間お上人が立ち上がり新しいお線香を立てたのです。あの時のショックは今でも忘れられません。以上が私の「光明会との出会い」です。私の育った東北地方ではこれまで「別時念仏」ということはされておらず、私はそれがどのようなものか知らなかったのです。寮に戻ってから私は番長さんに別時参加の感想を述べることが出来ませんでした。何故なら大人が大勢集まって一心不乱に念仏するそのことを当時の私にはとても理解できず足の痛みだけが記憶に残ったのです。番長さんも感想を聞きませんでした。きっと聞かれても言えなかったと思います。
父との対話
夏休み実家に帰省した折、僧侶である父に別時念仏に参加したことを話しました。父は別時への参加を悦んでくれました。これからも機会があれば参加することが望ましい。この地域でもやればよいのだがと新しい取り組みに躊躇して実行出来ないでいる様子でもありました。この地方は関東地区とは比較にならないほど規模の小さな寺が多く戦後の農地解放後は寺院の力が益々縮小していきました。地域全体は救われたが寺院は荒れた生活になり、国からはほとんどその補償金も支払われないと同様である話を日頃から父に聞かされていた私は何も言えませんでした。しばらく黙っていた父が顔を上げていいました。この寺の檀家にお医者様が二人いるのだが、そのどちらの先生も「身体の病気は我々医者が治しますが、精神面の分野は御坊様どうぞお願いします」と話していることをその時に聞かされました。そんなこともあってか父は「更正保護司」を40年程続けていました。我が家の玄関の近くに貼ってあったポスターにはこんな標語が書いてありました。「更正の華は慈愛の土に咲く」当時まだ小学生の低学年だった私は父に標語の語る意味を問いました。父の説明はむずかしかったので母の方にも聞きました。その時の母の優しく語る口調と眼差しを私は一生忘れません。
母が亡くなり、3年後、父も90歳を目前に入院しました。入院先の病院でのことです。同じ病室の患者さん達が「御坊様何か説法をして下さい。簡単なお経も出来たら教えてほしいのです」と言われ、病室で話していると病院長が別室を準備して下さり他室の人達まで集まってきて集いを一定期間続けたと、父の死後に姉から聞かされました。最後の父の顔はおだやかそのものでした。
これからの光明会について
学生時代に寮を出る最後の頃は例の番長さんと明け方まで「弁栄聖者」について語り合った夜もありました。あんなに熱く語り合った友も地方に帰ってしまい現在は光明会に顔を出していません。全国に離れていった友人や知人達をもう一度呼び戻したい。普通、学校なら同窓会があり、事業所等でもその後の「絆」はとても深いものがあります。しかし光明会では場所にもよりますが絆の弱い処があると見受けられます。そのためにはもう一度過去から名簿を洗い流す方法や情報収集に力を注ぎたいと考えています。そして古メンバーと新しいメンバーで語り合ったりして人生の意義をもう一度考えたいと思います。知識を備えておられる方も皆降りてきていただき、「智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」を実行していただくと共に「現代人に解りやすい説法」を合わせてしていただけたら嬉しく思います。守るべきは「弁栄聖者の教え」であるしそのためにすこしでも出来ることをしたいと考えています。どうぞ会員の皆様、これからの光明会発展のために力を貸してくださいますようお願いします。そして一緒に立ち上がろうではありませんか。
合掌