上田 茉莉
光明会にご縁のあったある女性とその家族のお話でございます。
その女性は明治二十七年、山形県飽海郡平田村、現在の酒田市の大きな農家に生まれ、名をみよえと申しました。
みよえさんは兄二人弟二人の真ん中でとても活発な女の子でございました。木登りが得意で田畑の中を走り回っていたみよえさんは、やがて大変向学心の強い少女に育ちました。医学の勉強をしたかったみよえさんでございましたが、その当時田舎の女の子に開かれている道はほとんどございませんでした。それでも諦められなかったみよえさんは何度も手紙を出して頼み、親戚を頼ってやっと東京に出て参りました。紹介された産婦人科で働きながら勉強を続け、やがてお産婆さんの資格をとったのでございます。暫くして母方の従兄のよえつさんとの縁談が持ち上がりました。みよえさんの母の実家は同じ村の平安時代から続く古い家系で、お念佛のご縁の大変深いおうちでございました。幼い頃よく一緒に遊んでいた二人は結婚して東京で新居を構えました。そして一男三女を儲けた後、千葉県松戸市に引っ越しを致します。時代は昭和に入っておりました。
長男よしあきちゃんの十才の夏休みにある事件がおこります。その日、みよえさんは下の女の子三人と暑を避けて午後のお昼寝をしておりました。突如、ガバッと跳び起きたみよえさんはお佛壇にかけ寄ります。おろうそくに火を灯そうとしますが、どうしても火がつきません。みよえさんは「よしあきが死んだ、よしあきが死んだ」と繰り返しておりました。間もなくよしあきちゃんの水死の知らせが届いたのでございます。駆けつけたみよえさんは、よしあきちゃんの遺骸を見て愕然と致しました。その日の朝、よしあきちゃんはみよえさんに「人は死ぬ時どうやって死ねばいいの?」と訊ねていました。信心深いみよえさんは「こうやって合掌するのよ。」と胸の前で手を合わせて見せました。亡くなったよしあきちゃんの手は、ちょうどその合掌が力なく緩んだような形になっていたのでございます。よえつさんとみよえさんは大変深い悲しみに沈みました。
暫く経ってご近所から「大変立派なお坊様のお話があるから聞きに来ないか」とお誘いを受けるようになりました。浄土真宗のお念佛をしていたよえつさんとみよえさんは、誘われるまま行ってみることに致しました。そこは松戸光明会でございました。残念ながら弁栄聖者のお話を直接お伺いすることは出来なかったのでございますが、田中木叉上人のご指導をずっと頂くことになったのでございます。その中で「お観音様のおはたらきの中に、その親を佛縁に導くために夭折する子としてこの世に生まれるという事がある」というお話がございました。よしあきちゃんの死は、更に深いお念佛へのお観音様のお導きであったと信じ、よえつさんとみよえさんは大変熱心にお念佛を続けたのでございます。
やがて世は太平洋戦争へと移って参りました。東京大空襲が近付いたある日、木叉上人は松戸のよえつさんとみよえさんの家をお訪ねになりました。「これから疎開先に向かうが、一緒に持って行くのは危ないから」と貴重品をお預けにいらっしゃったのでございます。驚いた二人は恐縮しながらもしっかりお預かりしたのでございました。
その間もみよえさんはお産婆さんとして活躍しておりました。その当時、近隣には大変貧しい生活をしている朝鮮の人達が数多く住んでいたのでございます。気の毒に思ったみよえさんは、他のお産婆さん達が疎む所に勿論料金をとらずにどんどん出向き、布がなくて代わりに新聞紙を新生児のおむつに使っているような所には、言えから浴衣や余り布を持参したのでございました。
そんなみよえさんの許で、よしあきちゃんの死後に生まれた末娘と合わせて四人の娘達は、揃って木叉上人のご指導を頂いておりました。木叉上人をお慕いして、皆白金台のご自宅や唐沢山のお別時にせっせと通いました。みよえさんは、娘達が唐沢山に上ると言うと本当に喜んで送り出しておりました。
当時の唐沢山のお別時は、上諏訪駅から歩いて上ったのでございました。自分の分のお米を持って荷物は牛車に乗せ、途中一本松の下で休憩してご聖歌を歌いながら楽しく上ったそうでございます。木叉上人のお別時中のご指導は大変厳しく、称名以外を声に出す事は禁止でございましたので、全て筆談でございました。お食事中にうっかり口をきいてお山を下ろされた方もいらっしゃったそうでございます。その唐沢山のお別時がみよえさんの長女のけいさんの新婚旅行の地となりました。けいさんは太平洋戦争中に松戸光明会で紹介された、ただおさんと婚約しておりました。ただおさんは戦地であった南洋で、椰子の実を削って木魚を作りお念佛していたそうでございます。終戦後数年して帰国したただおさんとけいさんは、その頃木叉上人がご在住でした埼玉県の倉常寺で結婚式を挙げて頂きました。そしてそのまま木叉上人とご一緒に唐沢山に上ったのでございます。木叉上人はこの二人の新婚旅行をとてもお喜びになって、暫くの間ご法話の中でお話になっていたそうでございます。
これは、第二次世界大戦終了後の昭和二十年代前半までのお話でございました。
私共凡夫が佛縁に遭うまでの生まれ替わり死に替わりをした遺骸を積み重ねますと、ヒマラヤ山脈の高さを越えるとお伺い致しました。この遭い難き尊い佛縁に続く糸の絶えませぬことをいのりまして・・・・
合掌