光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.38 田中木叉上人の思い出

花岡 こう

昭和36年、主人の勤めの関係で、信州上諏訪から、東京八王子へ引っ越して参りました。その事を申し上げますと、田中木叉上人から「練馬の光明園で毎月例会がありますから都合がついたらいらっしゃい」と言うお葉書をいただきました。

桜台の駅で降りて角を曲がり少し行くと、右手の通りに面した庭の隅に、如来様の大きなお絵像の看板が、道行く人を呼び止めるように掲げられており、光明園はすぐわかりました。草木に囲まれた石畳にはしっとりと打ち水がされ、光明園の松井様がお生けになった花が下駄箱の上に、つつましく飾られていました。焚きしめられたと思われる香のよい香りが漂い、上品な雰囲気でした。

玄関のすぐ近くの部屋は待合室となっていて、一方の壁一面に大きな本棚があり、ずらりと本の背が並んでいました。開け放たれた窓の外には見事な藤の木があり、小さな池の上で藤波がゆれ、芳香を放っておりました。大通りまで続く広い庭でしたが、手入れのよく行き届いた灌木が主として植えられていましたので、尚広々と感じました。

次ぎの部屋がお上人様のお控えの間となっておりました。背筋を正し、目を細められた上人が床を背にお座りになっておられました。お上人様のお姿には、思わずひれ伏してしまう威厳がおありになり、あたりの空気が、ピーンと張りつめている感じが致しました。 廊下の突き当たりの部屋が二部屋襖を外され、つながっていて、道場となっていました。

御法話の時は、どんなに大勢の時もマイクなしでした。皆、身を乗り出し、一言も聞き洩らさぬ様しんとしていましたので、生のお声が心に沁み込みました。

また。「メモを取るのは損ですから、お止めなさい」と仰いました。私は正直に仰せに従ってメモを取りませんで、心で聞くように致しましたが、勿体ないことをした様にも思います。ひそかにメモをして下さった方達がいらしたお陰でご法話が残されましたのに。

お上人様は「たとえどの位の方がいても、その一人一人の方がどの位、理解できていたかは一目でわかります。」と仰いましたので怖いと思いました。

法然上人は御自身の目から光を放って暗い所でも書物をお読みになったと言うことを、お聞きしたことがありますが、田中上人のお目も遠くからでも光り、射ぬかれる様な気が致しました。

何時も全身で御法話を拝聴し、お上人様のお念仏のお声も聞きながら念仏させて頂きました。そして帰る道すがら、不思議な気持ちになりました。行く時と帰る時と景色が変わっている訳でもないのに、なぜか、何を見ても聞いても、嬉しくて楽しいのです。

以上は田中上人が最後のご法話をして下さいました頃までの光明園の思い出です。さすがに、光明園も時代の経過による老朽化を免れず、現在は後を継がれた河波上首により、総二階の、しかも別時用宿泊施設も備えた立派な念仏道場となっております。

今、手元に一枚の葉書があります。消印を見ますと昭和三十六年六月となっています。お上人様から芝白金今里町のご自宅へ遊びにいらっしゃいとお招きいただきました。方向音痴の私ですが、書かれた道順を辿って、何とか探し当てました。とてもコワゴワ緊張して伺ったのですが、威厳に満ちた例会の時のお上人様ではなく、こぼれるような優しい笑顔で迎え入れて下さいました。他にも青年の方が一人いらっしゃいました。

子供達の事まで優しく気遣って下さったり、楽しいお話を伺っている時、隣の部屋の方から小さな声で歌声が聞こえてきました。それは奥様が私共のために、お茶の準備をしていて下さったのです。聖歌だとすぐわかりました。小さなお声ですが、そのお声がうきうきととても楽しそうでした。「さあさあ」とお茶やお菓子をすすめて下さいました。

お上人様に案内されて、二階へ上がらせて頂きました。部屋の真正面の床の間に、弁栄聖者が田中木叉上人の為にお描き下さったという如来様のお絵像が掛けられてありました(現在は河波上人が田中木叉上人から賜って光明園の茶室に掛けられている如来様です)。今まで拝んだことのない如来様で内心ドキリと致しました。その前でお上人様と礼拝念仏させて頂きました。

おいとまの御挨拶をする時、玄関は板の間でしたが、お上人はそこへ正座をなさり、にこにこと、優しい言葉で見送って下さいました。恐縮して何度もお辞儀をして辞しましたが、大通りまで出て、振り返りましたら、お上人様はまだ正座のままで見送って下さっており、本当に恐縮しました。「念仏なさいませ」と仰ったお上人様のお声がそれから五十年余も経った今も耳の底に響いております。

「人は生涯を通じてお慕い申し上げる方が居られるととても幸せな一生を送れます」とも仰いました。田中木叉上人にとってその方は弁栄上人でいらっしゃいました。

○師のみ声 耳に残りて あたたかし

○慈父と仰ぐ 師のあり春の 光り満つ

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