光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.39 東北の空に祈る─ 南三陸町・「摩梨阿観音」さま開眼式に参加して ─

植西 武子

去る1月の中旬頃、郵便ポストに大判の封書が届きました。差出人は龍飛水師、何だろうと思って開封すると、『東日本大震災その後』と言うタイトルの立派なパンフレットと龍師のお手紙が入っていました。それに目を通し、即座に「これだ」と心に決めました。

その主旨は宮城県・南三陸町に、3.11の殉難死者(876名)とその関係者に至誠の祈りを捧げるために観音様の慰霊碑を建立すると言うことでした。そしてその碑の下に奉納する写経と喜捨への協賛を呼びかけるものでした。

かねがね何かお役にたちたいと思いながら、無為に日を過ごしていましたので、これならば微力ながらお手伝いができるかと思い早速お電話を入れました。

災害直後から何度も現地を訪問されている龍師は本事業への意義と取り組みについて、深い思いをもって熱く語って下さいました。

「摩梨阿観音像」が誕生するまで

(1)被災地の復興の現状は……
災害から約二年が経ち、「復興」の兆しはみられる。しかし、沿岸部や市街地は比較的復旧工事が進んでいる一方で、小さな自治体では殆ど進んでいない。南三陸町はその一つといえる。
また、「復興」と言えばライフラインは言うまでも無く、湾岸、道路の整備、建造物とどうしてもハード面が中心となる。しかし、現地の人と接する中で、亡くなった人への悲しみでその心の傷は深く、癒えていない。このメンタル面のケアこそ、即ち「心の復興」こそ今、強く求められている……と。
(2)魚籃摩梨阿観音とは?
「摩梨阿」は言うまでも無くキリスト教のマリア様を意味し、観音様は古来、仏教の信仰の対象として親しまれている。即ち、どの宗教の人でも拝めるようにとの配慮である。この観音さまは胸元に十字架のネックレスを着けておられる。
「魚籃」は魚を入れる籠のことで、三十三観音の一つである「魚籃観音」を意味し、志津川湾に漁港を持つ南三陸町の復興を願うものである。
龍師のこの観音像に込める思いは深く、彫刻に関しては何ヶ月間も付き添って助言されたそうである。
このような主旨のお話を伺って、自分一人だけでなく、このご縁を広めたいと思い関東支部の「女性の会」の時に皆さんに呼びかけました。
皆さん気持ちよくご賛同くださり、毎月一回実施している「女性の会」の写経の時間にみんなで犠牲者の冥福を祈りながら心を込めて写経しました。
また、一人でも多く、そしてお念仏の深い方の写経も頂ければと思い、兵庫県の鈴木美津子さんや静岡県の袮次金文子さんにもお願いしました。両人とも喜んでご協力下さいました。更に他方面の方々にもと思っていましたが、時間的に間に合わず残念でした。

心待ちにしていた開眼式

(1)懐かしい人々との再会

3月3日、いよいよ待望の日がやってきました。関東からは森井摂子さんと私の2人が参加しました。龍飛水師のお膝元、神戸からの皆さんとは南三陸町のホテルでお会いしました。龍飛水師(佐橋快雄上人)は通照院の前住職で若き日に母とよくお別時に参加させて頂きました。山上光俊上人も高校時代にここで光明主義の仏縁に会われました。 龍飛水師の奥様は勿論、当時におられた潮谷美耶さんも参加されており、40数年ぶりの懐かしい再会となりました。お2人共、若々しくお元気でお念仏のありがたさを教えられました。ご縁の糸は時間、空間を超越して張りめぐらされていることを実感しました。

(2)大雄寺寸描

その観音像は大雄寺の墓園の一角に設置されました。住職、小島孝尋老師のご厚意によるものです。そこからは志津川湾が一望され、亡くなられた八七六名の霊位をお祀りするに絶好の場所と思いました。このお寺は災害時、テレビで何度も放映されており、長い石段が続く高い所にあったため津波の害は免れたものの、そこに至る第一の門や杉並木は一掃されました。墓地に行く途中には流された大きな石柱やお地蔵様がまだ横倒しのままに置かれていました。

(3)盛大に挙行された開眼式

当日は風は冷たく感じられましたが、晴天に恵まれました。

式典は定刻の一時に読経により始まりました。観音像の前に大雄寺老師を中心に八名の僧侶の方々が揃いの法衣で並び、声量ある読経が流れると辺りは厳粛な雰囲気に包まれました。約二百名の参加者は合掌して祈りを捧げました。

導師による開眼作法、参加者による献香(献花)、来賓の献辞、地元住民代表の謝辞、の順に法要は進行しました。静寂の中で心一つに深い祈りを捧げました。この瞬間を心に留め置きたいと思いました。

式典の後、地元のご婦人方が甘酒を準備下さいました。地元出身の防衛大臣も参加され感謝の意を表明されておりました。

この地に祈りの場所ができたことは何よりも素晴らしいことでした。

いつしか、テレビで見た場面が強く印象に残っていました。それは被災地を訪問中の東京の女子高校生が荒れ地のあちこちに置かれている花束に合掌しながら、「どこかに拝める場所があればいいのに。」と言っていました。

その一つを実現された龍飛水師の偉業に改めて感じ入りました。着想、信念、努力、忍耐、人脈、実践力、全てが兼ね備わってこそ出来たことと思います。

災害の跡地を訪ねて

式典後、地元のボランティアの方の案内で町内を巡りました。海岸近くは未だ枯れた雑草で荒涼としていました。そこに足を一歩踏み入れた時、期せずして涙が流れました。悲しいと言う感情の実感が湧く前に。非常に不思議な体験でした。

鉄骨のみ残る「防災対策庁舎」では死の寸前までマイクで避難を呼びかけたうら若き女性に心を馳せて深く深く祈りました。風に揺れる折り鶴が寂寥感を醸し出していました。

最後にあの大津波が襲ってきた海辺を訪れました。

摩梨阿観音が見下ろす志津川湾の海はあくまでも蒼く、あの日の出来事がまるで悪夢であったかのように、うららかな早春の陽を浴びてきらきらと輝いていました。

  • おしらせ

  • 更新履歴

  •