祢次金 文子
溝口幸吉様との出会い
昭和36年4月。丁度半世紀も昔のことです。
私は仕事で柏崎に行くことになりました。今でこそ、新幹線がありますが、当時は静岡から柏崎迄は片道八時間くらいかかったと思います。長い汽車の旅ですから退屈して、持っていた「ひかり」誌を取り出して見ていると、裏表紙に「ひかり誌」代金の納入者の名前が一覧表となって記載されていました。その中に、「柏崎本町・溝口幸吉様」の名前が目に留まり、柏崎にも光明会の方がいらっしゃるのかと、一面識もないのにとても懐かしく感じて、仕事が終わったらお訪ねしてみようと思いました。
2・3日後、早速溝口様を捜しました。折箱を製造しているお宅で、すぐに見つかりました。どきどきしながら玄関に立ち、声をかけましたら、小柄で小太りのお年寄りが出ていらしたので、「あ! この方がご本人だ。」と直感しました。
名乗りを上げ、突然のご無礼を言いかけましたら、溝口様はにこにこ笑いながら、開口一番「さあ! 極楽寺にご案内しましょう」と言われました。私は予期してない言葉にびっくりして戸惑っていましたら、さっさと玄関を出て歩き始めたのです。私は慌ててついて行きました。
今日、私がお訪ねすることをまるで知っていたかのように、ご自身はすっかり外出の身支度をされて出てこられたこと、私をお寺に連れて行くことが当然のように振る舞われたこと、とにかく、驚きの連続でした。
この時の事は今でもはっきりと覚えています。
極楽寺までの道程
小さな町並みだったと思いますが、どこをどう歩いたのか全く記憶がありません。あまり遠い道程ではなかったと思います。ただ一カ所忘れられない風景があります。それは木々が鬱蒼と生い茂っていて、昼間でも日がさすことのない薄暗い切り通しです。その切り通しを出ると、目の前に線路が横たわっていて、その回りには人家もなく、勿論踏み切りもありません。そこを跨いで渡りました。
その時、溝口様は「ここはお寺のさき子夫人が自殺者を助けたところですよ。」と話されました。私たちはお寺の裏口の方に出たのです。
極楽寺本堂にて
当日は住職も奥様も不在でした。溝口様は勝手知ったようで、本堂に上がり私に各部屋を案内して下さり、聖者の居間にも入りました。とても懐かしそうに「いつも墨染めの衣を着て、ここをこのようにお通りになり、ここ迄来られたら、ここにお座りになり、ご説法をして下さったのです。」とその仕草をひとつひとつして見せて下さいました。
溝口様は「お念仏をしましょう。」と言って木魚を揃えて下さり、二人並んでご本尊様の真正面に座り、お念仏を始めました。しばらくすると私は嬉しいとか悲しいとか何の感情も湧いて来ないのに、突然涙が溢れて、その涙がまるで滝のように流れてきて止まりません。静まり返っている本堂に、私の涙の音が聞こえるのではないかと思った程です。
小一時間程いましたが、ご住職にはお会いすることは出来ませんでした。
溝口幸吉様のこと
14、5歳の頃、聖者と初めてお会いして、すっかりそのお人柄とお念仏に魅せられて一生懸命に励まれたそうです。3、4年過ぎた頃に出家して聖者のお弟子にして頂こうと思い、その決心を話しましたら、聖者は「あなたは家業を継いで下さい。」ときっぱりと言われ大変悲しかったそうです。出家することは許されなかったが、とても可愛がって下さり、書画を沢山描いて頂いたそうです。
聖者亡き後、皆様に形見として差し上げたので今は一枚もないと言われました。たった一つ聖者の米粒名号があるので、これをあなたにあげましょうと言って、ちいさな桐の箱に入った米粒名号を下さいました。有り難く頂いてお別れしました。
一期一会
今振り返って見ますと、その後も長岡、特に新潟には毎年何回も出張しているのに、柏崎には二度と訪れることはありませんでした。最近、「法のつどい」でも柏崎の極楽寺参りもありましたのに、ついにご縁はありませんでした。
思いがけないことで溝口幸吉様と極楽寺様には最初で最後のたった一度の尊い出会いとなりました。