光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.50 颯田本真尼を巡る旅(一)

菅野 眞慧

颯田本真尼(1845~1928)は、地震、津波、火災、などの災害に際し、救援物資をもって真っ先に現地に駆けつけ、被災者を励まされ、すべてはお念仏の結縁の為にと、84年の生涯で日本全国23都道府県、6万戸の救済をなされました。「風の布施行」と呼ばれ、自分の功績を残すことを決して望まれず、今の日本人の殆どが、この偉大な尼僧様のことを知らずにいます。私が颯田本真尼様の足跡を辿り始めたのは、東日本大震災と馬渡島を訪れたことがきっかけでした。

平成14年、8月、僧侶の資格を取るべく、増上寺での少僧都養成講座二期の講義中、坂上雅翁先生が雑談の折に話された「颯田本真尼」という初めて聞く名前が耳に飛び込んできました。被災者救済に生涯を捧げた浄土宗の偉大な尼僧様に強く惹かれ、藤吉慈海先生の著書『颯田本真尼の生涯』(春秋社)を教えて頂きました。早速本屋へ向かいましたが、既に廃刊となり、春秋社に在庫も、再版の予定もないとのこと…次に神保町の古本屋街を訪ねましたが、仏教書専門店にもありません。店主のおじさんに「運がよければ、そのうち出てきますよ」と慰められ、以後1年半、幻の書でありました。しかし「念ずれば通ず」で、私はその本を、光明園の河波先生の書斎で見つけました。お願いをして、お借りし、初めて知る本真尼の生き様に、弁榮聖者と同じく一人の人間が生涯にここまで、自己を磨き、仏道に徹し、人の為に尽くせるのだろうかと、驚嘆するばかりでした。颯田本真尼も、お念仏を3年間不臥修行されるなど、若い頃から自らを厳しく律した方でした。その真摯な姿を慕って、自然にお弟子が集まったこと、やがて人生の後半、被災者救済の活動を始めてからも、僧俗問わず、多くの方々が物資の布施者となり、6万戸の救済を成し得たこと、全ては被災者にお念仏の結縁をつなげる為でありました。本真尼の存在は、尼僧になりたての私にとって、大きな励みとなり、その存在はまばゆい光のようでありました。しかし、当時、颯田本真尼を知るすべは、藤吉先生の著書のみで、浄土宗の僧侶でさえ、その存在を知る人は少ないのでした。「もっと知りたい」思いを胸に秘めつつも、私自身尼僧として、お寺のこと、お念仏の教えを学ぶことにも追われ、拠点も東京から、故郷の大分善光寺に移した時期でした。そんなある日、お寺の物置を整理していると、亡き祖父(菅野眞定和尚)の書籍の中になんとあの『颯田本真尼』の本があるではありませんか! あんなに探し回った本が、実は自分のお寺にあったという廻りあわせも不思議でありました。

3年前の震災後、浄土宗の尼僧として、颯田本真尼様の存在を世に伝えることも、復興のお手伝いにつながる様な気持ちが芽生えました。改めて、本を手に取りました。記載された被災地の多くは、あまり記録が残っていませんが、それでも被災地の人々と本真尼の交流が、縁のお弟子さんや関係者のお話を通じて詳しく書かれている地方の逸話もあります。その一つが、佐賀県の馬渡島でした。

佐賀県唐津市、玄界灘に浮かぶ馬渡島に観音堂という小さなお堂があります。島にお寺はなく、海側に仏教徒、山側にキリスト教徒の集落があり、今から約百年前、仏教徒集落の半数以上が焼失する火災が起こりました。この大火を知った大阪の木綿問屋、泉谷儀三郎、ハナ夫妻は救援物資を愛知県にある浄土宗徳雲寺、颯田本真尼へ託しました。本真尼は救済のため三度島を訪れています。島の人は、この出来事に心から感謝され、観音堂に本真尼とハナ夫人の写真を祀り、日々、拝んでいます。しかし、藤吉先生の記載からも既に40年以上が過ぎており、果たして今の観音堂はどうなっているのか…?

そして、私が馬渡島の観音堂へ行き、自分の目で確かめることに果たしてどんな意味があるのか、不安と期待を抱えて、3年前の10月、母をお伴に、初めて、馬渡島を目指しました。呼子港からフェリーで約40分、馬渡島の港にはお土産屋さんもタクシーもありませんが、観音堂は歩いて10分ほどの距離にありました。お堂の中に入ると、1人の老婦人がお参りされていました。綺麗にお掃除されたお堂の真ん中に観音様、向って右脇に、「圓明本真老沙弥尼」と記された本真尼のお位牌と泉谷儀三郎、ハナ夫妻のお位牌、さらには本真尼とハナ夫人お2人を模した菩薩像が安置され、写真も飾られていました。よく見ると、同じ菩薩像の一体はなんと日本髪を結っています。ハナ夫人が、まさに菩薩となってこの場におられるようでした。今も島の皆さんはお2人を大事にされていたのです。

やがて老婦人がお堂から出ていかれ、私も木魚を叩いてお念仏を始めました。すると、御婦人2人が「木魚の叩き方が島の人と違う」と、気になったそうで、「どこから来たの?」と声をかけてきました。本真尼様を訪ねた旨をお話しすると、思いがけずいろいろと質問を受けました。実は、島の皆さんは小さい頃から観音堂にお参りし、本真尼様とハナ夫人の菩薩像の前で毎日手をあわせているにも拘わらず、特にこのお2人がどういう方なのか意識せず、漠然と昔島の人々を救った尊い方というぐらいにしか認識していなかったそうです。しかし、島の過疎高齢化もあり、改めて今の世代で島の歴史を見直そうという気風も起こり、2月18日の泉谷ハナ夫人の命日に併せて、火災から約100年を迎える記念法要を計画されていました。是非その法要にお参りしたいとお願いすると、快諾を頂きました。

2人の御婦人は、浦丸カヨ子さんと丹野慶子さんという当時の区長と副区長の奥様で、島の人は毎日観音堂から隣接するお墓へもお参りし、お花も欠かさぬ為、すぐに一杯になるゴミ捨て場で樒の山を焼いている最中でした。毎日の生活の中心に観音堂へのお参りがあり、島の信仰は活き活きとして、御婦人方の明るさの中に表れていました。おしゃべりの間にも、次から次へと島の女性がお参りに来られ、観音堂はどんどん賑やかになっていきました。やがて、帰りのフェリーがお昼を過ぎるからと、私達の食事の心配が始まり、お茶やお菓子、果物、さらにはイカのお刺身やご飯など、思いがけない御馳走も戴きました。あっという間に打ち解け、お互いの連絡先を交換し、また来年2月の100年法要に参加する約束をしました。皆さん、出会ったばかりですが、港でフェリーが見えなくなるまで、手を振ってお見送り下さいました。胸の中でうれし泣きというのでしょうか…実際に涙こそ出ませんが、泣きそうになるぐらい胸がじんわりとしました。本真尼様でしょうか、阿弥陀様でしょうか、迷っていた私の背中をぽんと押してくださっている様な気がしたのです。

大分に戻って、しばらく、一人の男性から私の携帯に電話がかかりました。「馬渡島の浦丸といいます」と告げられ、フェリー会社の社長さんで100年法要の発起人でした。「菅野さん、本真尼さんのこと、島の皆がどういう人か知りたがっています。せっかく法要に参加するのでしたら、是非、本真尼さんのことお話しして下さい」という思いもよらぬ提案でした。私なんかがという気持ちも当然ありますが、それに勝るのが「本真尼様のことをお伝えしたい」という予ねてよりの気持ちです。藤吉慈海先生の著書を元にお話ししますと引き受けました。それから数日後、今度は佐賀新聞社の唐津支店担当の男性から連絡を受けました「本真尼さんについて伺いたいのですがよろしいですか?」と。なんと、発起人の浦丸さん、100年法要に際し、テレビや新聞社合わせて12社を呼び、馬渡島100年法要の記者発表を行ったのです。予期せぬ大がかりな展開と、馬渡島の熱い心意気を感じました。本真尼様と馬渡島のご縁は、また新たに多くの人につながっていくのです。そして、私は、今現在に到るまで3年間に5回も馬渡島を訪れています。すばらしい100年法要については次号で詳しくお伝えします。

つづく

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