菅野 眞慧
平成24年2月18日、2回目の馬渡島(まだらじま)渡航は思いがけないご縁を頂き、お坊さんとして、馬渡島の「大正7年宮の本大火100周年法要」に参加することになりました。車を、名護屋港に停め、馬渡島行の船に乗ると、先に呼子港から乗船された浦丸護さんがお出迎え下さいました。80歳になられ、「自分達が元気なうちに」と、100年には少し早い今年に、泉谷ハナさんの81八十一回忌と颯田本真尼の八十四回忌の法要も併せて、今日まで忙しく準備されていた様です。一緒におられた若い男性は、なんと、泉谷家の子孫、儀三郎、ハナ夫妻の曾孫であられる泉谷隆行さんでした。やはり、浦丸さんが連絡されて、神戸から初めて来られたそうです。
泉谷夫妻が亡くなられた後も、当時の馬渡島小学校校長、弥富忠六先生が中心となり、泉谷家と島民の交流は続いていました。本真尼とハナさんを模した菩薩像も、ハナさんの三十三回忌に併せて、弥富先生の呼びかけにより造られたものでした。
昨年の夏に、観音堂の本真尼と泉谷夫妻のお位牌壇の下から、昭和55年2月17日に催された泉谷夫妻五十年忌法要の記念資料や、泉谷家と馬渡島の子供達との交流を物語るお手紙などが、見つかったそうです。節目、節目で、泉谷家と馬渡島の交流が続いていたことから、浦丸さんは、「今の私達からも、若い世代に温かい支援を受けた歴史を伝えていかねば」と改めて思われたそうです。馬渡島の「顔」であられ、とても矍鑠とされていました。
100年法要の実現は、まさに浦丸さんの行動力と島の御婦人方の協力の賜物で、皆さん、馬渡島の為に働かれることを自身の喜びとされておられる様でした。島に着くと、前にお会いしたお母さん方がお出迎え下さり、区長さんの車で島を案内されました。再び、宮の本集落の観音堂に戻ると、皆さん一丸となって、明日の百年法要の準備をされていました。しつらえも日常と異なり、本真尼と泉谷ご夫妻のお位牌と菩薩像はお堂の真正面に移されています。泉谷さんが位牌の前に進み、手をあわせると、右肩を一瞬、びくっと震わせていました。私はそばでその様子を見ていたのですが、何とも不思議な光景でありました。自分の御先祖が、遠い九州の離島で、菩薩様として祀られているご縁、そして、世代を超えて交流が続き、曾孫の隆行さんが観音堂を訪れ、曾祖父母の位牌に手をあわせている姿に、先祖代々の美しいつながりを感じました。そのことを、泉谷さんにお伝えすると、はにかみながらも、「なんだか、手をあわせた時、右肩のほうから、電気…というか、びりっとした感覚があったんですよ…」と仰います。右側と言えば、「泉谷さん、いつもはね、泉谷家のお位牌と菩薩像、右側にあるんですよ」と伝えると、不思議そうな顔をされました。実は、泉谷ハナさんは病弱で生前は、馬渡島を訪れることが出来ませんでした。亡くなる直前、「生まれ変わったら、馬渡島に行きたい」と願っていたそうです。まさに、ハナさんは、長い年月を経て、日本髪の菩薩となって、馬渡島におられます。
旅館に戻り、島の皆さんと、明日の法要の打合せをして、島のこと、観音堂のこと、泉谷家や本真尼様のこと、いろんなお話が出来た楽しい夜を過ごしました。めずらしく、雪がちらつく中で、100年法要の朝を迎えました。島の皆さんもきちんと正装され、ご婦人方は法宴の準備で走り回っています。いつもは島にいない方も戻られ、地元のテレビ局や新聞記者達の姿もあり、集落は人で溢れていました。唐津から、曹洞宗、龍泉寺のご住職が来られ、午前十時より法要が始まりました。読経は、普段からよくお称えされているご婦人方の声の素晴らしさに、圧倒されました。よく和合された大きな声が堂内に響き渡りました。来賓の方々の御挨拶の後、泉谷さんがご先祖のことや泉谷家についてお話しされ、最後に私が颯田本真尼様についてお話しさせて頂きました。本真尼様のことはもちろん、私がこの法要で伝えたいことは、馬渡島の皆さんへの感謝の気持ちでした。今の日本から、忘れ去られようとしていた颯田本真尼様を、こんなにも大事に守られている場所は、馬渡島の観音堂以外に無いこと、世代を超えて、本真尼様と泉谷ご夫妻の功績を大事に守り伝えてきたこと、そして、私自身、馬渡島の皆さんに出会えたご縁に感謝して、「颯田本真尼様について、これからも調べ、お伝えしていきます」と話を締めくくりました。
法要後は、立派な公民館に移動し、島の仏教徒全員参加での、盛大な法宴となりました。お母さん方の手作りのお料理と、立派なお弁当が並び、百年記念の晴れの日を皆でお祝い致しました。残念なことに雪が激しくなり、船を一便、早めて、島の名物、手作りの「えいこね萬十」をお土産に頂き、宴たけなわでの退散となりました。お別れ間際の、皆さんの楽しそうなお顔が今も胸に残っています。浦丸さん、泉谷さんに晴れやかなお顔でお別れの挨拶を頂き、「これからは、本真尼様の縁の土地の方々と日本中に交流を広げていけたらいいですね」と次なる夢を語りました。フェリー乗り場では、お母さん方が法宴を抜け出して「見えなくなるまで手を振るからね!」と、賑やかにお見送り頂きました。
それから以後、私は多くの方に、馬渡島の観音堂の素晴らしさを語り、今に至るまで、毎回違う友人知人と一緒に馬渡島を訪れ、交流を深めています。
2度目の渡島後、坂上先生に馬渡島での100年法要についてご報告申し上げたところ、とても興味をもっていただきました。その後、坂上先生のご縁で、本真尼様のお寺、愛知県西尾市の徳雲寺に伺い、無住のお寺をお守りされている、本真尼血縁の颯田洪さんとお会いすることも出来ました。
3度目の渡島は、坂上先生を観音堂にご案内して、いつもの御婦人方と先生を囲み、お話ししているうちに、本真尼が3度目の渡島の際、全仏教徒68戸、全ての家庭に、仏像を68体寄贈しているとの藤吉先生の記述どおり、今も皆さんの家に当時の仏像があることが分かり、数件の御家庭でその仏像を拝見させて頂く事も出来ました。当時の木箱が残っている家もあり、木箱の側面には、箱がきが記され、記述から、さまざまな寄進者の存在も分かってきました。
4回目は、徳雲寺の世話人である颯田洪さんをご案内し、道中、颯田さんから、本真尼様についていろいろなお話を教えて頂きました。
5回目は、今井英之さん、光順さん夫妻と吉水岳彦さん、そして、浄土宗新聞記者である、服部祐淳さん達と渡島致しました。やはり、震災をきっかけに、坂上先生も颯田洪さんも、「今こそ本真尼様の存在を世に伝えねば」という使命のような感覚に突き動かされておられます。そして、服部祐淳さんも、浄土宗新聞の記事に、颯田本真尼の特集を組みたいと徳雲寺を取材され、「是非、馬渡島も」と、今井さんご夫婦のご縁もあり、私がご案内することになりました。
…しかし、5回目の渡島、私が船に乗り遅れるというハプニング(大失態)があり、先に服部さん達は島に渡り、取材に入りました。後で到着すると、既に観音堂ではお坊さん達とお母さん達が和やかに交流しておりました。若いお坊さんが大勢で島に来てくれたと、そして観音堂でご回向とお念仏が出来たと皆さん喜んでおられました。私がそうであったように、初めて馬渡島に来て観音堂でお参りした時に、言葉にはならない感動に包まれます。泉谷隆行さんも、坂上先生も、颯田洪さんも、そして、4人の若いお坊さん達も観音堂でのお参りにとても感動されていました。お念仏の声が高らかに、今も観音堂には本真尼様のお念仏の教えが息づいていると、伝わってくるのです。そして、皆さんも「また、馬渡島に行きたい」と、次第に馬渡島に魅かれてゆくのです。これからも、本真尼様のご縁は広がっていきそうです。
100年法要の新聞記事を自坊に送ってくださった、唐津市内のお寺のご住職さんから、「次は、私も馬渡島に案内してくださいね」とお声をかけて頂いています。さらに、昨年の浄土宗新聞十二月号の六面全頁に、颯田本真尼の特集記事が掲載されました。今年の一月号五面全頁と続き、二回目は「馬渡島」についての特集でした。本真尼様のご縁が、いつの間にか、多くの方々に広がっています。そして、馬渡島から始まる本真尼を巡る旅は、本真尼縁の徳雲寺、本真寺、さらに日本全国に展開していくことになるのです。次回は、本真尼のお寺、愛知県西尾市の徳雲寺様についてご案内申し上げます。
(つづく)