光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.52 颯田本真尼を巡る旅(三)

菅野 眞慧

馬渡島の100年法要後、全国に本真尼の足跡を辿ってみようと決めた私は、本真尼の存在を教えてくださった坂上先生に連絡を取りました。翌月に三河教区で、浄土宗教学院の公開講座が開催され、「颯田本真尼の布施行」と題した坂上雅翁先生の講義もあると知り、早速申込みました。会場の荒井山九品院は岡崎市にあり、それならば少し西南に足を延ばし、西尾市にある本真尼のお寺「徳雲寺」にもお参りしようと愛知県三河地方行きの旅行計画を立てました。

3月16日当日、公開講座では三河浄土宗史についての講義もあり、やはり信仰の篤い土地で、多くの高徳の僧尼が輩出された歴史を知り、そんな豊かな風土から颯田本真尼様が現れたのかなと、初めてふれる三河の仏教文化にも興味がわいてくるのでした。坂上先生のお話は、藤吉慈海先生の『颯田本真尼の生涯』を中心に、ご自身がお若い頃、知恩院で藤吉先生のお部屋で、本真尼のお弟子の尼僧様に出会ったご縁があって、その出来事が颯田本真尼についての研究の出発点であったと語られ、本真尼の救済活動を振り返りながら、東日本大震災を経た私達のあり方を考えたいとお話を締めくくられました。講座には、徳雲寺をお守りされている颯田洪さんの姿もあり、お話しすることが出来ました。明日、徳雲寺様にお参りしたいとお伝えすると、ご案内頂けることになり、最寄りの吉良吉田駅で待ち合わせの約束を致しました。坂上先生には馬渡島の観音堂の現在についてご報告して、「今後、本真尼様の調査のお手伝いをさせて下さい」とお伝えすることも出来ました。

翌朝、駅から颯田さんの車で、徳雲寺へ向かいました。実は無住のお寺である徳雲寺にお参りして淋しい気持ちになるのではないかという不安を抱いていたのですが、杞憂に終わりました。颯田洪さんは、本真尼の颯田家と血縁があり、徳雲寺世話役として、毎朝お寺の玄関をあけ、夕方に戸締りをされ、命日の8月8日には年忌法要、さらに毎月8日には法話の会があり、篤く本真尼のお寺をお守りされています。今も本真尼の気配の残る徳雲寺の空気に包まれて、私の心も晴れ渡りました。

さっぱりとした簡素な美しさの徳雲寺の本堂を前に、再び、本真尼様に出会えた嬉しさが心に満ちていきます。そして、ついに本真尼のお寺にお参り出来たことですっかり気持ちが高揚してしまいました。お寺の何処をみても、本真尼の何をきいても、喜々としてしまい、自分を落ち着かせるためにもお念仏をお称えします。本堂に入ると、美しい彩色の阿弥陀様に目を奪われました。ご本尊の阿弥陀様は明治時代に造られ、色は100年の時を重ね、尚鮮やかな美を保っています。阿弥陀様に向かって右脇には、本真尼の遺影、師匠である叔母の本乗尼と妹の諦真尼も共に一つのお位牌に名を刻まれています。左脇には、沢山のお弟子様や信者様の位牌壇、泉谷家のお名前もありました。このお堂で本真尼様はお弟子様と一緒にお念仏をお称えしていたのだなあと…本真尼と沢山のお弟子さんのいらした当時に思いを馳せました。

お念仏のお参りの後、庫裏に戻り、颯田洪さんのお話を伺いながら、貴重な資料も拝見させて頂きました。本真尼直筆のお名号と「堪忍」のお軸、本真尼の絵姿、沼津火災布施帳、本堂寄付帳等、残された資料は少ないものの、今後、調べていくことで、また新しい事実につながる糸口が大きく広がっていきます。「本尊寄付帳」を手に取り、寄進者のお名前に目を通していくうちに、「山崎弁榮」と弁榮聖者のお名前を見つけました。颯田さんから、弁榮聖者はよく徳雲寺にいらしていて、本真尼様と交流があったと教えて頂きました。後日『日本の光』を読み直すと、改めて「徳雲寺」の名を見つけました。弁榮聖者は法を伝えに徳雲寺に何度もいらしています。颯田本真尼を巡ると、弁榮聖者につながりました。尊敬するお2人が同時代を生きておられ、交流をされていた事実は嬉しい驚きでありました。

颯田さんは、本真尼のことを知れば知るほど、とても一人の人間が為せることとは思えない布施行を為された姿に「凄い」を超えて「恐ろしい」と、畏敬の念を抱くそうです。颯田本真尼の偉業を、日本人は忘れてはならないと、徳雲寺を大事に守られております。

本真尼のお話を祖父母、父母から語り聞いた人々が、今もまだ吉良吉田周辺におられ、藤吉先生の御本以外の逸話を颯田さんから教えて頂きました。当時、近所の方々は本真尼を慕い、お葬式には本真尼にお経をあげてもらうことを希望される方が多かったそうです。本真尼は亡き人によくお念仏を手向けられ、生まれて間もない赤ん坊が亡くなった際、お念仏を皆でお称えしたあと、本真尼が赤ん坊に向かって、「よかったのう、よかったのう」と言われ、その言葉に、家族は心から感激され、救われた心持ちで家に帰られたそうです。本真尼でなければ言えない言葉であります。

また、近所のお爺さんは国内外の災害募金を必ず行っていて、そのことを偶然、颯田さんは知ったそうですが、しかし、そのお爺さんは自分が多くの寄付を続けてきたことを誰にも話したことはありません。それは、お爺さんが幼い頃から母親に「本真尼の様に、本真尼の様に(陰徳をつみなさい)」と言われ続けた教えを貫いているからだそうです。

「菅野さん、藤吉先生はね、本真尼のことを決して忘れてはならないと私に言われました、私もね、同じ気持ちです」という言葉に、本真尼様を今の世に伝えたいと願う同志を得た思いでした。颯田本真尼様のご縁から、颯田洪さんに出会えた今日に感謝です。ちょうど春の彼岸入りの日でもあり、隣接する本真尼のお墓にもお参りをして、駅へ送って頂き、握手をしてお別れ致しました。

昨年秋には、坂上先生も徳雲寺に来られ、颯田洪さんと私の三人で、再び資料の調査に取り掛かりました。「溺死人霊名記」と記された帳面には、明治22年に三河を襲った高潮で亡くなられた377名全ての方のお名前が記されています。さらに「月忌回向帳」の17日の頁には、「明治22年旧8月 高潮溺死精霊 当村死亡人377人」とあり、毎月ご回向をされていたことが窺われます。当時、本真尼は45歳であり、徳雲寺も浸水の被害を受けました。一夜のうちに亡くなった百数十名の御遺体を前に、読経念仏をされ、これからはその生涯を被災者救済のために捧げる決意をされた出来事でありました。この「溺死人霊名記」こそ、本真尼の救済活動の原点であり、「溺死人霊名記」は、残そうという意思がこめられた特別な資料であるような気がします。他にも資料を拝見し、颯田さんからお話を伺い、また、坂上先生の資料の見方、今分かる事実から、調査をどう進め展開していくべきか、要領などを教えて頂き、沢山の事を学ぶことが出来ます。そんな師匠のようなお2人を前に、不肖の弟子の私は、少しでもお役に立ちたいと必死であります。

資料の「沼津布施帳」にある、布施者のお名前に目を通していると、ん?…外国人女性らしきお名前を見つけました。「イー・エー・ゴールドン」「どんな方だろう?」坂上先生がその場でネット検索にかけると、「エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人」という名前が現れました。英国人で比較宗教学を学び、日本に魅せられ、生涯の研究テーマは仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようとする「仏基一元」であったそうです。何かの縁により、本真尼の活動を知り、賛同して、布施者となられたのでしょう。「これは、また素晴らしい方につながったね!」と3人で大興奮いたしました。その後も、坂上先生は、本真尼の研究の中で、ゴルドン夫人の調査を続けられています。

その夜は、徳雲寺に近い、三河湾を望む吉良温泉のお宿で、お酒を飲みながら、同志三人による「作戦会議」がさらに続きました。颯田本真尼様を巡り、三人の仲間から発信を続けていけば、本真尼様の存在に感動し、賛同される新たな仲間が増えていくはずと、未来を語りました。本真尼様のご縁を広げていくこと、そして、全国の残された記録を見つけていける様、さらに本真尼の足跡を辿っていこうと話は尽きません。

次回は最終になりますが、もう一つの本真尼のお寺、神奈川県藤沢市の本真寺と、本真尼の足跡を旅した、山形県酒田市、青森県青森市、津軽半島についての出来事など、今現在で分かっている足跡の全てをお伝えしたいと思います。 

つづく

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