光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.57 奇(く)しきご縁に巡り会い─吾子(あこ)に導かれて─

村松 浄光

私は現在は長野県(長野市)に居住していますが、以前はずっと神奈川県に住んでおりました。若い頃はタイピストとして働き、結婚して一男一女の母となり、平穏に暮らしておりました。ところが、その後、私の人生は思わぬ方向に展開していきました。

長男の怪我

それは長男慎太郎の怪我に始まりました。彼が2歳の時でした。車の上で遊んでいて、転落し、頭部を強打しました。出血もひどく、外傷の手当は言うまでも無く、内部の検査もあちこちで済ませ、異常なしとの診断で安心しておりました。
ところが、その2年後の或る日、突然に両手、両足が動かなくなりました。その驚きと落胆は筆舌に尽くせるものではありませんでした。

転々と病院を訪ねて

それからが全国行脚の病院廻りが始まりました。ところがどこを訪ねても原因不明で答えが見つかりませんでした。自ずと救いを求めて、あちこちのお寺廻りも始めました。

本人も病院を嫌って、連れて行こうとすると柱にしがみついて「病院に連れて行くなら、死んで帰ってくる。」と不思議なことを言い出しました。白衣の人を見ると発熱する有様でした。どうすればこの子が救えるか、何にでもすがりつきたい思いでした。

救いを求めてお寺廻り

友達、知人は言うまでも無く、宗教家や各地のお寺に答えを求めて訪ね回りました。宗派を問わず、全国各地のお寺を車椅子を押しながら二人で訪ね歩きました。あれだけ病院をいやがった慎太郎でしたが、不思議とお寺廻りはよろこびました。

当時、有名であった吉野の行者にも足を運びました。そこで「あなたは僧侶になりなさい。」と言われました。この言葉はここだけでなく、あちこちのお寺や宗教家からも同じことを言われました。

慎太郎の不思議な夢

慎太郎は時々、「こんな人が夢に出てきたよ。」と言うので、「それを絵にかいてごらん。」と言うと、上半身が人間で下半身が動物の絵を描いたり、あるときは仏様だったりしました。最初は気にかけていませんでしたが、京都の三十三間堂を訪ねた時、「この人が夢で来たよ。」と言って、多くの仏像の中の一体を指し示しました。それが何と観音菩薩様でした。更に、記念のお土産を選んでいると、「お母さんこれがいいよ。」と言って選んだのが「心」と書かれた色紙でした。その頃から、私は「この子は不思議な子だ。」と思うようになりました。

やっとたどり着いたところ

4才頃から始めたお寺廻りでしたが、6才の頃に初めて長野の善光寺様にお参りしました。すると息子は「やっとここに来られた。」と言って涙を流しました。
息子の求めていたもの、それがこの善光寺様にあったようでした。

それから何年間もの善光寺参りが始まりました。当時は神奈川県に住んでいましたから、遠方ではありましたが、何度も何度もお参りしました。

動き出した私の心

その頃から、私の心に変化が生じてきたようでした。目に見えるものしか信じない私でしたが、息子を見ていると「私には何も見えないし、聞こえない。しかし息子には見えている。目に見えない世界があるのかも知れない。それを知りたい。」と思うようになりました。善光寺様とのご縁が深まるにつれ、仏道への一歩を踏み出していました。そして僧侶になる決心が固まりました。

念願の法衣を纏う身となって

厳しい修行を終え、僧籍を得て48才で出家しました。増上寺での加行を終えた時には、息子は家族と共に歩いて迎えに来てくれました。彼は善光寺でのお参りを続ける内に、足に力が入るようになり、18才を過ぎた頃からだんだんと自分で歩けるまでになりました。

車の運転免許も取得するに至りました。仏様のご加護とありがたく受け止めました。

無常の風は身に沁みて

しかし、その喜びも束の間で、息子は24才で佛様に召されてお浄土に還っていきました。風邪による誤嚥が原因でした。あまりにも急なことで、一時は悲嘆に暮れました。
しかし、この厳しい試練をお念仏のお陰で乗り越えることができました。

子供の頃は不安を拭う「おまじない」のように思っていたお念仏が、「自分の心を見つめ直し、行く道を示してくれる力」へと変わってきました。お念仏の尊さを実感するに至りました。

息子よ、ありがとう

今、翻って思う時、私をここまで導いてくれた息子の存在に「ありがとう。」と合掌するばかりです。人生の前半は治療のための病院通いとお寺廻りに尽きましたが、これらを通して、人生で最も大切な宝の存在を教えられました。私を導くために生まれて来てくれた息子の存在の意味を深く深く受け止めています。「息子よ、本当にありがとう!」

これからが正念場

僧侶になってから、善光寺の中のある寺院に寄住し、時間があれば念仏三昧に精進しました。その後、自分の活動の拠点が欲しいと思うようになり、1年前に古民家を借り受けました。自分の僧名に因んで「静幸舎」と名付けました。現在そこでの活動が始動したばかりです。「誰でも、何時でも、自由にお念仏ができる場にしたい。」と言う大きな目標の下に、既に仏画教室を開いています。「釈迦牟尼佛」と「阿弥陀如来」を安置して「二河白道」の世界を表現した本堂、誰でも自由に動けるバリア・フリーの本堂と夢は広がる。ソフト面、ハード面で課題は山積していますが、「至心に念ずれば、道は自ずと開ける。」と信じて、夢の実現に向けて邁進して行きたいと思っています。

村松浄光さんとの出会い

植西武子

私が浄光さんと初めて出会ったのは8・9年前の「りんご狩り念仏会」の時でした。

古田上人のお手伝いとして、我々参加者をお二人の車に分乗させ、あちこちの移動にお世話下さいました。その翌年にホテルで同室することになりました。

自己紹介をする中で、同じ神奈川県で、しかも平塚と二宮、僅か二駅違いとのことで話が弾みました。「どうして尼僧さんになられたのか?」と言う私の質問に、このロング・ストーリーが展開されました。あまりにもインパクトのある内容に、すっかり魅せられて、不躾な質問もしたりして、気がつけば深夜になっていました。

この貴重な体験を是非、「ひかり」で紹介したいと思いましたが、プライバシーの問題もあり、遠慮しておりました。毎年りんご狩りでお会いする度に、今度こそと思いつつ、機を逸していました。

今年は意を決してお話ししますと、実は既に本年9月にある新聞で紹介されたとのことでした。そしてその新聞(週間仏教タイムス)の一部を頂きました。

「ひかり」に是非、記事を書いて欲しいとお願いし、受けて下さいました。衷心より感謝すると共に今後のご活躍を心から期待しています。輝かしい女性の活動、心より応援したいと思います。

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