光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.58 先人の足跡を辿って ─ 足利千枝先生と婦人部の活動 ─

植西 武子

弁栄聖者百回忌を数年後に控え、今、婦人部の結成が求められています。九州支部では既に発会式が行われ、活動が始まっているようです。各支部もそれに続くべく模索している状況かと思います。

聖者は嘗て、女性の活動の重要さを説かれ、愛知県に長期逗留してその事に尽力されたことからも、百回忌を機にその実現を図り、それを具現化することはとても意義があることと思います。

しかし、その前に、婦人部が既に存在し、実に輝かしく活動していた過去の事実を知り、その歴史を再認識して、学ぶべきは学び、改めるべきは改めてスタートすることが必要かと思います。その視点から、私の知る限りのこと紹介したいと思います。

熊野好月先生と茨木の婦人光明会館

正式に何時、発会したのかは残念ながら、今、手元に記録はありません、初代会長は熊野好月先生でした。大阪府の茨木市に婦人光明会館が完成し、好月先生がそこに居を移して活動を始められました。夏休みには子供達を対象としたお念仏と学習の会があり、何度かお手伝いに参加しました。喜々として遊ぶ子供達の声が今も聞こえてくるようです。また、お正月には年頭別時念仏会もありました。これにも何度か参加させて頂きました。のどかで穏やかな時代でもありました。

後継者、足利千枝先生

その数年後、熊野好月先生はご高齢のため引退され、足利先生が会長に就任されました。足利先生は大学で教鞭を執られ、ご専門は栄養学でした。

今にして思えば、時代の先端を行く、行動派であり実践家であり、活動家でした。

そのエピソードを二・三紹介しますと、先生は婦人部の活動について、何時も私の母に相談されていました。その極みとして、宝塚に立派なお家がありながら、私達の住む神戸の塩屋のマンションの一角を購入され、研究室と称して移って来られました。そして毎晩、夕食の終わる頃に玄関のチャイムがなると言う熱心さでした。

また、あるとき、暫くお姿が見えなかったので、「どこに行っておられましたか。」と尋ねると、いとも簡単に「国際婦人会議に参加してきました。」と答えられ唖然とした事がありました。確か、東欧の国での開催でした。先生は英語はあまりお得意ではなかったと思います。

更に、真夏の或る日、エレベータを待っていると、上からするすると降りてきてドアが開きました。何と水着姿にバスタオルを羽織り、素足のままの足利先生が現れました。「ちょっと一浴びして来ます」あまりにもの大胆さに目を見張るばかりでした。

因みに、ここは須磨海岸と違って遠浅でなく、遊泳禁止区域でした。確かにマンションのすぐそこに波は打ち寄せていましたが……。

増上寺での婦人部総会

昭和59年5月17日、東京、芝の増上寺で婦人部総会が盛大に開催されました。私は当時、仕事優先で参加しませんでしたので、静岡の祢次金文子さんに当時の状況をお聞きしました。また、当時の参加者名簿も頂きました。何と全国各地から百三十余名の参加と言う盛況ぶりでした。勿論、藤田さださん、佐藤きんさんが率いる静岡のエプロン部隊も参加し、活動されたとのことでした。足利千枝先生が挨拶され、会場は熱気に包まれていたようでした。その後、翌日の京都での「法のつどい」に全員で参加されたようでした。

婦人部での諸活動

〈その一〉貸し切りバスで「法のつどい」に参加
何回目であったのかは定かではないのですが、神戸からバスを借り切って、婦人部で「法のつどい」に参加しました。バスが動き出すと足利先生がマイクを片手に挨拶されていた姿が鮮明に蘇ります。知恩院の宿泊も所狭しの雑魚寝状態でした。
〈その二〉度々開かれた役員会
会長の足利先生を中心に役員が関東支部から中牧淑子先生、中部支部から祢次金文子さん、近畿支部から長谷川さん、川島恵子さん、鈴木美津子さん、会計として母も参加していました。まだ他にも何人かおられたようです。行事は計画的に綿密に審議されていたようでした。集まる機会が多く、それによって女性の結集力が一層強まったのではないでしょうか。
〈その三〉女性の底力を示した募金活動
増上寺での婦人部総会より以前にも何回か全体会があったようでした。母が話をする準備をしていたのを記憶しています。その頃に、海外で大きな災害がありました。
誰かの提案で会議中に募金箱が会場を廻りました。閉会後に開けてびっくり、多額の金額であったと聞きました。女性特有の感性が生み出した結果だと思いました。

親子別時の育ての親

足利千枝先生と言えば「鉢伏山親子別時」の育ての親の一言に尽きます。椎尾弁匡上人と藤本浄本上人との熱い思いが、地元の多田助一郎氏を動かし、開発された聖地での親子別時、それを引き継がれ導師としてご指導下さった八木季生台下は、長年に亘り本事業に熱心に取り組んで来られました。足利先生は夏休み前になると、何時も「今年も是非参加してね。」と人集めにご苦労されていたことを思い出します。そして、何年か後に「武子さん、今後の親子別時を頼みますよ。」と何度も言われました。当時は「ハイ、ハイ」と軽く受け流していました。とこが、いよいよ定年退職する頃から、その言葉が気になり始めました。その何とかしなければの思いが、今日まで細々とお手伝いさせて頂いている次第です。先人の深く尊い思いを決して無にしてはならないと思います。

終わりに

私が今回、筆を執ったのは、先人達の多大な努力が今日までの継続の原点であることを認識し、来るべき百回忌が単なるイベントに終止することなく、未来に向けての発進力となることを心から願うからです。女性のみなさん、先輩に負けない気持ちで、各支部での活動に取り組みませんか。金田隆栄理事長も熱望されています。

昭和63年2月7日、足利千枝先生はお浄土に還られました。その時、塩屋のマンションに挨拶に来られました。私はお念仏中でしたが、お仏壇の裏の6階の壁に「ドーン」と言う大きな音がして飛び上がりました。その直後に「今日、お亡くなりになりました」 との電話連絡が入りました。その衝撃が現在も親子別時を護る力となってくれています。

「光明院法譽専念智恵大姉」どうかお浄土から、私達の活動を見守って下さい。

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