光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.64 お念仏の中で─父のお浄土への旅立ち─

三上 妙光

私の師僧である父と、お別時に一緒に参加させてもらっておりました。幼い頃の実家極楽寺でのお別時に始まり、豊前善光寺のお別時、唐沢山のお別時等々。尊く貴重な時間を共に過ごさしてもらいました。父は、平成25年8月に享年87歳で往生致しました。父は、本当によくお念仏をしておりました。早朝4時位から毎朝弁栄上人の三昧仏さんの前でお念仏をお唱えしておりました。ろうそくが何本も燃え尽きておりました。

蚊にさされてもパチッとたたかない父を、なんて優しいんだろうと幼心に思い、慈悲深い父にお念仏の中で育ててもらったことに感謝しております。

亡くなる4ヶ月前、私の家に泊まり本堂の阿弥陀様の前で、お念仏をお唱えしておりますと、父は感無量になったようで涙声になり、涙をいっぱいためお念仏を唱えておりました。そして「仏さんがおんさる。生きた阿弥陀さんがおんさる。有難い。有難い。」と涙を流しながら言っておりました。今から思うとこれが師僧である父と一緒にお念仏を唱えた最後でした。今でもこの時の父のお念仏の声は、私の耳に残っております。とにかく「有難い、有難い。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と手を合わせておりました。

そして、父の亡くなった日、朝病院に行くと「もう目は見えないと思います」と言われました。でも人間耳は最後まで聞こえます。私は父の枕元で「お父さん、私はお父さんの子で本当に幸せだったよ。お父さん今まで本当にありがとう」と感謝の気持ちを伝えました。そして「お父さんいつもお念仏してたね。おじいちゃんやご先祖さん、仏様が迎えにきとんさるんだね。お父さん、お浄土に往くんだね」と父の手と私の手を合わせて「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と耳元で、ずっとお念仏を唱えておりました。

すると肺にある酸素が一度、ゼロになりました。お医者さんが心臓マッサージをされました。父は肺炎だったので、口呼吸をしておりました。口を開けたり閉じたりしてナムナムと言っているようでした。私は父のナムナムに合わせて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えておりました。

一度酸素量がゼロになったのに父のナムナムに合わせてお念仏を唱えていると1時間30分位経っておりました。部屋中お念仏で満たされておりました。そして、なんとも穏やかな神々しい雰囲気に満たされておりました。

すると亡くなる少し前、本当に不思議な事ですが、父の目が一瞬祖父の目になりました。私は久しぶりに祖父を見て感極まり「おじいちゃん」と心の中で呟きました。

その後、安らかに父は往生いたしました。

最後父の周りには、家族、親戚、檀家総代さん達も来られていました。辛く悲しい気持ちはなく、感謝の気持ちを込めて、皆さんと一緒に同唱十念をお唱えし父を送りました。お念仏の中で皆さんに見守られ、亡くなった祖父が来迎してくれた父のお浄土への旅立ちでした。

父が逝去し三回忌を迎えようとしております。父の笑顔の遺影を見ると時々涙することもありますが、永遠なる親様、阿弥陀様がおられます。阿弥陀様のお慈悲に包まれて「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と有難い光明生活を送らせてもらい、この上ない喜びと幸せを感じ、感謝の中で生活をさせてもらっております。そのご縁を沢山繋いでくれた父に心より感謝します。

「青い稲穂はその中に、白いお米の実るため。死ぬる身体はその中に、死なぬいのちの育つため」(木叉上人)。

私もこの世で、お念仏を喜ぶ生活をさせてもらい、仏道、福祉の仕事に精進し、お浄土にまいりました時には「精一杯仕事をし、今こちらにまいりました」と、祖父や父達と逢うことが、この上ない喜びとなっております。

合 掌

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