植西武子
いまを遡ること半世紀、伯母に誘われ、初めて訪れた信州・唐沢山での田中木叉上人最後のお別時、これこそ私の一生の宝物となりました。
この年の5月に京都・古知谷別時に参加し、7月には高野山、そして8月には唐沢山とまさに、お別時ラリーの年でした。「人は何のために生きるのか?」その答えを求めて悩んでいた時のことでした。
小学校(当時は国民学校)2年を終えて、神戸から滋賀に疎開しました。母の実家が浄土宗のお寺であったため、子供の頃から佛様に手を合わせることに抵抗はありませんでした。しかし積極的に求めるでもなく、漫然と日を送り、成人となりました。
この時に遭遇した難問の回答を求めて鬱々とした日を送っていました。
そんな時、近くに住んでいた伯母がよく我が家に遊びにきていました。伯母は若い頃から岡潔先生と一緒に京都の梅ヶ畑でお念仏をしていました。その話を何故か、何時も、私にだけするのです。「晴れた日でもいつも蝙蝠傘をもって歩いておられた。」とか。
多分、私が「何時もの話が始まった。」と思いながらも黙って聴いていたからだろうと思います。熱心な光明主義者で京都のお医者さんだった恒村先生宅にも、幼稚園児の頃に、伯母について行った日の光景を今も鮮明に覚えています。今、思うにこれがご縁の始まりだったと思われます。
最初に初めて参加した古知谷別時は落ち着いた雰囲気の中で、心の安らぎを感じました。次に参加した高野山別時は百人を超える大別時で、導師の木叉上人の左右には若き河波定昌上人と三隅栄俊上人が控えておられました。このお別時は「結縁別時」としてゆったりとした雰囲気でした。三度目となる唐沢山は大人数で、しかも大変厳しいお別時でした。この三度目の別時こそ、私の人生における大きな宝となりました。
導師の田中木叉上人が下からお駕籠で登って来られ、みんなが合掌して迎えた光景はまさに、江戸時代にタイム・スリップしたようで、今も鮮やかに蘇ってきます。
当時の唐沢山別時は、施設、設備面では現在とは想像もつかないものでした。勿論高度成長期に差しかかったばかりのことで、今振り返るとまさに隔世の感です。具体的な例として、洗面所は皆無に等しく、あの崖下のせせらぎで百人が洗面しました。お手洗いも勿論水洗でなく、個数も限られ、女性の部屋はいつもその匂いの影響を受けていました。お食事も朝は小さなコッペパン2個とほうじ茶のみでした。若い人にとっては何時も空腹で、まさに修業にふさわしいものでした。
藤堂俊章上人がよく「唐沢山に来てタイ3匹(眠タイ、食べタイ、帰りタイ)を釣っていたらいかん。」と言われたほどでした。このように聞けば、大変な所と思われますが、当時はそれが当たり前でした。
このような状況下にあっても、誰一人、苦言なく、お念仏に燃えておられました。一心不乱にお念仏される先輩諸氏の姿に憬れさえ抱きました。精神的に充実した人の姿に感動を受けました。今、自分がその年になって、そんな範となる姿に到っていなことに愕然とする昨今です。
年を重ねる度に唐沢山への思いは深まり、語学研修で海外にいた2回を除いては全日程とは行かなくても、毎年参加していました。夏休みのある仕事に就いたことが幸いしました。
しかし、ある年、理由もなく、「今年はやめておこう。」と決めていました。すると、「唐沢山から招待状をもらったが都合がつかず、行けないので是非誰か行ってほしい。」と言う依頼の電話が母に入りました。唐沢のトイレの改装費を寄付された人からでした。何人かに当たりましたが、誰も都合がつかず、結局、私が行くことになりました。この時、確かに「自分が呼ばれている。」と唐沢山との深いご縁を感じました。
また、こんなこともありました。ある夏休みに語学研修のため、一夏を海外で過ごしました。あまりにも多くの宿題で、殆ど眠れぬ夜を過ごし、机に伏せて眠ってしまいました。するとあの懐かしいポンポンと言う木魚の音が響いてきました。時計を見れば真夜中の2時、「ああ今頃は、唐沢山は午後のお念仏の最中だ。」私の心はすでに太平洋を越えていました。毎年、夏休み中の行事予定表が配られると、目は8月後半に釘付けです。丁度、ど真ん中に職員会議があることが多くありました。
なぜ、唐沢山は私の心を捉えてはなさないのか、いろいろ理由がありますが、何と言っても「あの声をもう一度聞きたい。」に尽きます。
「あの声」とは初めて参加した時のこと、昼休みに一人で聖者のお墓にお参りしました。あたりは深閑として誰もおらず、墓前に跪き「弁栄聖者、どうか仏様に会わせて下さい。」と一心にお願いしていました。5分、いや10分とお願いしていました。すると突然、確か背後で「南無阿弥陀仏」と太い男の人の声がしました。びっくりして飛び上がりました。最初は誰かに見られていたと思い、恥ずかしい気分でした。そして辺りを見回しましたが人影はありません。念のため、墓石の裏まで捜しました。やはり人影はなく、辺りは深閑として、遠くで蝉の声が静寂の中に響いていました。
太くて、強くて、柔らかいあの声、「『あの声』をもう一度聞きたい。」
目に見えぬ多くの糸に包まれて、「生きている。いや、生かされている。」とひしひしと実感いたします。人生のターミナルを自覚するようになってきた昨今、遅ればせながら、そろそろ人を糸でくるんであげる立場にならねばと思うに至りました。
「私に出来る些細なことから、何かお手伝いしよう。」と。以来、唐沢山のお台所でゴキブリのように、今年も這い回ろうと思っています。ゴキブリは何かよい獲物はないか、虎視眈々と捜しています。私に獲物が見つかるよう、皆々様のお力添えをお願いします。
唐沢山から見下ろす諏訪の湖の彼方には、西方極楽の阿弥陀様が燦然と輝いておられます。あの大広間に座して、皆様とご一緒に「南無阿弥陀仏」と唱えられますことを心より願っています。