花岡 こう
今年の2月頃、先を急いでいたので、二車線の道路と交わる信号のない四つ辻を横切ろうとした時、中央分離帯に後ろ足が引っかかり、膝を捻ってしまいました。
大急ぎでレントゲンやらMRIの検査等で「大腿骨顆部突発性壊死」と言うものものしい病名がつきました。当分の間、病院通いと安静でした。
「何でお婆ちゃんは信号もない横断歩道でない所渡ったの」と孫にまで叱られました。本当です。「年を取ったら転ばないことが大切」と人にも言い、自分にも言い聞かせていましたのに。
河波上人様が「私はね、信号を待つ時間が良い念仏時間です。青になるまでお念仏していると有り難いですよ。」と仰せられたのをお聞きして私も真似することにしていました。
信号が赤の間、お念仏していると、焦る気持ちが有り難い気持ちに変わります。その内、歩道を渡る時でなくても、信号機を見ると反射的にお念仏が口をついて出るようになりました。それなのに、この時は急いで信号のない道をわたったのです。
―言い訳にもなりません―
この怪我のため、休養時間がたっぷりありましたので、私はこの有り難いお念仏にどうして出会わせて頂いたのか思い出してみました。
私の実家は唐沢山の麓の上諏訪の小和田と言う所です。その頃は教念寺を中心として町内会にはそれぞれ念仏講と言う集いがあり、一定の年齢になると、当然のように皆その会員になり、定期的に会をそれぞれ公会所で開いていました。お坊さんに来て頂いてと言う訳でもなく、親睦も兼ねていたように思います。
子供達は公会所の縁側に並んで腰かけ、足をぶらぶらさせながら遊び、お念仏の終わるのを待って、お供えのお菓子が配られるのを楽しみにしていました。
私は一度、階段をそっと上がって二階を覗いて見たことがありました。如来様や観音様のお軸がずらりと掛けられて、父が音頭を取ってお経をあげていました。何時も父だったのか、当番だったのか知りませんが、父はとても声が良く、義太夫が好きでした。声が良く、選ばれたのかも知れません。子供の頃から、念仏は日常的な事でした。
女学校の頃、戦争の疎開で伊藤よし子さんが東京の女学校から諏訪高女へ転校してこられました。同じクラスの私と仲良しになりました。お互いの家に泊まったり、泊まられたりで家族ぐるみの付き合いとなりました。
その頃、学生の間で「人生とは何か」を考え、勉強より本を読むことが流行のようでした。教会でヴェールを被ってお祈りをし、綺麗な声で聖歌を歌うのを聞いて憬れ、二人でこっそり教会に通うようになりました。
或る日、よし子さんのお婆さまから、「二人はキリスト教の教会へ行っている樣で、キリスト教も良いけれど、日本人だから仏教のお念仏もしなさい。」と言われ、お念仏は年寄りのするものなのにと内心反発していました。よし子さんのお婆さまはとても熱心な光明会の念仏者でした。
その頃、田中木叉上人様は毎年、唐沢山の別時を終えられると一晩正願寺で御法話とお念仏の会を持たれ、その後、伊藤さんの家へお立ち寄りになりました。
伊藤さんの家では大勢の村人を集め、みんなで田中上人のお話をお聞きしました。私とよし子さんは何時も一番前の席でお上人様の足下でお話をお聞きしました。
子供の頃から何となしに聞いていたお念仏がこんなに尊く、生きるために必要な事とは知りませんでした。大変、衝撃を受け、それから二人でお念仏会に参加するようになりました。
田中上人様は唐沢山別時の前後はその頃のお世話人の土橋春雄様のお宅へお泊まりになっておられました。伊藤さんのお宅は四賀普門寺という所にあり、土橋さんのお宅から車で二〇分ほどかかりました。
伊藤さんの家でのお別時が終わると、お上人様は上諏訪の土橋様のお宅へお戻りになられます。私の家も上諏訪なのでお上人様のお供をさせて頂きました。運転席の隣に私が座りますと、後の席からお上人様の声が聞こえてきます。如来様がそこにましますという風に心のこもった尊いお声で、車の中はお念仏に包まれました。勿体ないことでした。
今でも耳を澄ませて聞きますとその時のお上人様のお声がありありと甦って参ります。