光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 光明園での講話

山本サチ子

平凡な日々の中で

 私は天気の良い日は朝食後に花や野菜に水を遣ることを日課としています。野菜の成長を眺め可憐に咲く花々を見て楽しんでいます。庭で野菜の手入れをしていると保育園の年少組の子供達、約30人が二列に並び、手をつないで公園へと向かいます。「お花が綺麗だね」と声を掛けてくれる子供達の声が嬉しく、そして毎朝水やりと庭の草むしりが私の楽しみになっています。
 今日は一歳児が五人乗りの乳母車(三台)に乗りはしゃいでいます。次の瞬間、私は一人の乳児と目が合ったので手を振りました。すると“バイバイ”を返してくれました。小さくても状況が判るのだなと感心させられます。こんな時間がとても楽しいのです。
 普段外出しない日には庭の草むしりをしますが虫との闘いになります。夏は特に蚊や害虫が多くやっと白菜や大根の芽が出てきたぁ…と喜びも束の間、根本から害虫に茎をちょん切られてしまうのです。また一方では一生懸命に草むしりをしている私の身体を蚊が容赦なく刺します。蚊取り線香の煙もなんのその、蚊は猛烈な勢いで血を吸いに寄ってきます。なんと酷いことをと虫を恨みますが、蚊も生きるために真剣なのでしょう。けれど私の立場からしたらそんな優しいことを言ってはいられなくて、次の瞬間に私は必死で「ぴしゃり」と蚊を叩くのでした。

山崎弁栄上人の言葉

 人を殺す罪は最も重い。その内に父を殺し、母を殺すのがなお重い。しかしそれより一層思い罪がある。それは己が霊性を殺すことである。(田中木叉上人『日本の光(弁栄上人伝)』P.487)
 夜になると蚊がおつむといわず手足といわずさすのに、じっと血を吸わせて追われもしないので、「お上人様、蚊が」とおそばの一人が申し上げると上人:「いのちがけでくる蚊です。血の一滴や二滴、供養してもいいでしょう。人はわずか蚊一匹のために五尺のからだがとらえられて鬼の心になる。そして蚊を殺したと思っているが、自分の大切な霊性を殺していますね」(同P.508)

 この御教えを拝読したとき私はことばでは理解しても心では納得いかないものがあるとずっと考えていました。そんなもやもやした思いのなか、光明園での例会の際、この御教えが近藤伸介師の講話の中でプリントされて紹介されました。山崎弁栄上人の言葉です。その時また私のもやもやが再び込み上げてきました。
 蚊はたくさんの病原菌を運びます。私の小学生であった頃、低学年の男子が日本脳炎にかかりました。校長先生はなるべく蚊に刺されないように気をつけて生活をするようにと各家庭に通達文が配布されました。蚊はあんなに小さい生き物だけれど怖いのだと子供の心に植え付けられました。
 現在では世界をまたぎ、デング熱等も蚊により媒介されたりします。嘗て黄熱病の研究をなされた私の故郷出身の野口英世博士も蚊、もしくは患者からの影響を受け黄熱病に倒れたとも言われています。子供時代からそのように大人達に教えられてきた自分にとっては弁栄上人の御教えは時代に合わないのではとずっと考えていたのでした。
 近藤伸介師のこの日の講話のタイトルは「ベトナム戦争について」でした。アメリカとベトナムの悲惨な戦争、そして戦争終了後の特にアメリカ兵に“心の病”に掛かった人が多かったことでした。ここで命についてそしてそこから戦争はしてはいけないのでありまったく人権を無視したできごとであること、そして先程の弁栄上人の言葉のところまで言及されたのでした。話は盛り上がりました。もう一つの資料の方は、「唯識と光明主義」(第4講)時間がないため次回のテーマとなりました。参加者の皆様からの沢山の話題があがり、私は近藤伸介師に質問をする時間が持てませんでした。茶話会でもお話しできなかったため大南龍昇先生にもやもやした思いを質問してみました。

私:先生、私は草むしりをして虫も殺すし、蚊もぴしゃりと叩きます。まして病原菌を運ぶ蚊は放置できません。
大南先生:蚊を殺した、その時どんな気持ちがしましたか?
私:後味が悪くいい気持ちはしませんでした。なので南無阿弥陀仏と申しました。
大南先生:後味が悪くその時、はっとしたその思い、その気持ちが大事なのです。そのことを考えていきましょうね。

 そのことばを聞き私は、はっとしました。生き物の命と霊性を私はこれほどまでに真剣に考えていなかったと思ったのです。弁栄上人のことばの真髄は単に“殺生するな”だけではなくて殺生することにより自分の霊性を殺してしまう。殺傷が当たり前となり罪の意識を持ちづらくなる。そのことを戒めて自覚を持たせ、霊性についても触れられたのではないか?と今ではそんな風に考えるようになりました。これまでずっとこの部分の御教えは納得できるものではありませんでした。大南先生のことばによりこれまでの疑問が少し軽くなったように感じました。時代が変わっても変わらない教えはある。むやみに自分の都合で生き物を殺傷してはいけないのだし、今更こんなことを言っている自分は何ておろかな人間なのだろうと思います。四大智慧の話を読んだとき衝撃と感動があったはずなのにそのことすら私は考えていなかったのです。言葉の上だけで終わっていることに気が付きました。弁栄上人の言葉に含まれた意味は私が考えているようなものではなく、霊性という深い意味が込められていたわけなのです。凡人の私はまったく”言葉の表面”だけをとらえていたと思います。言葉の奥にある意味を考えながら読むことが肝心なのではないかと思うようになりました。私は今では、弁栄上人は何気ない日常の生活のなかでも私達に「道」を開示されていたのだと考えています。大霊から賜った霊に目覚めるために一路邁進しなくてはいけないと気持ちを新たにした例会となりました。

南無難思光佛
甚深難思の光明を 至心不断に念ずれば
信心喚起の時いたり 心の嘩瞳とは成りぬべし

 私は『礼拝儀』の「南無難思光佛」の箇所が好きです。私でも希望が持てると思うからです。これからは、邪念、妄想に我が心を盗まれぬよう努めていきたい。そして精進できますように一日一日を大切につとめていこうと思います。

合掌

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