光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 ずるい

山本サチ子

子育て

 昭和50年代は私にとって育児と仕事に追われる毎日でした。子育てを振り返ると、忙しさと慌ただしさばかりが強く、少しの余裕もない日々を過ごしていました。思い起こせば、子供には可哀そうなことをしたなあと思います。出産後の自分は、赤ん坊と顔を突き合わせている日々が何故か精神状態がとても不安定でした。産後の休暇が終わり民間の保育園に生後2カ月の子を預けました。

保育園に子供を預ける

 保育園に子供を預けた初日のこと。六十代のおばあちゃん先生が「今日からは昼の間は私達がお母さんです。安心してお仕事をして来てくださいね! くよくよしてはいけませんよ! どこの子も皆鼻水を垂らすし、熱も出します。一緒に子育てをしましょうね」…と優しく仰いました。その時私の背中を押してくださったその言葉がどんなに有難く励まされたことかわかりません。通勤電車の中で私は感謝の“南無阿弥陀仏”をこころで懸命に称えました。社会と繫がりを持つことで私の不安定だった精神状態が穏やかになっていきました。
 息子がまだ三歳前の頃は勤務先でも行事が多く残業になることもありました。遅くにお迎えに行くと園長先生のお宅でお夕飯をご馳走になっているなんてことが何度もありました。親子の触れ合う時間が少なく、これできちんと子育てができるのかしら? と心配になりました。
 或る朝、自転車で保育園に向かう途中に、舗装されていないガタガタ道の石の上に乗り上げてしまい“ガッタンゴー”と大きな音がして強い振動が伝わりました。私は思わず息子に“ごめんなさい”と叫ぶと自転車の後ろに乗っていた息子は“お母さんが悪いんじゃないよ道が悪いんだよぅ”と言ったのです。幼児とは思えぬ言葉に癒やされた気持ちになりました。一日の触れ合い時間は少なくともしっかり子供と向き合い育てれば曲がらずに成長することができると思いました。これまで子供に申し訳ないとばかり考えていたけれど自分が社会できちんと生きる姿を見せることも大切であると思えるようになりました。これまでの申し訳ない思いから頑張って仕事をしたいと思う気持ちに変化してきたのです。けれども仕事を優先すると保育園に迷惑をかけるし、かといって早く帰宅すれば職場に負担をかけてしまう。まさに板挟みで胸の内は辛い思いもありました。それからは忙しい時は近所の方に夕方の迎えを頼み二重保育で繫ぎました。
 一日の幸せな時間は一緒にお風呂に入っている時、寝る前の会話や絵本を読むことなどです。年齢が少し上がると夜はテレビ番組で“世界名作劇場”の時間です。なかでも「トムソーヤの冒険」が楽しくて、大人も一緒にワクワクしたものです。記憶に残る番組は“ふしぎな島のフローネ”です。ある家族が遊覧船に乗り旅行をするのですが、スイスからオーストラリアへ行く途中嵐に会い、舟が難破して何処と知れぬ無人島に流れ着きます。やはりワクワク、ドキドキする番組でした。そこでの自給自足の生活がとても伸び伸びした毎日なのです。通りかかった船に救われるまでの一年数カ月の生活が実に見事です。南の島で寒さがなかったことが生活することに良かったのでしょう。主人公の女の子は過酷な環境の中でも伸び伸びとしています。他にも二人漂流した友達の子がいたのですが、彼らと嫌なことがあっても相手の良い部分を考え、“良かった探し”をして物事をプラス思考に考えるところが実に見事です。この番組を通じて我が家ではそこから親子の会話がたくさん出来ました。 

良かった探し

 自分の周囲では楽しいことばかりではなく、むしろ困難な問題がたくさんあります。そんな時子育て中に観たあの子供番組をよく思い出します。もちろん“南無阿弥陀仏”は常に称えるのですが合わせて対人関係の融和を考えたとき、あの南の島の物語に登場する主人公の“良かった探し”を思い出します。私も試してみたくなりました。相手の嫌なことはさておき“よいところ探し”をします。そうすると不思議と自分が未熟であったことが解ってきます。大小の気持ちの差はありますが、とにかく冷静な判断ができるようになるから不思議です。私自身が単純な性格であることは確かですが、その幼稚な性格をうまく利用した方が良いと思っています。他人の良かった探しは少し難しい時もあるけれど、必ず良いところがあるのだと思い、記憶を辿ると、
 “ある意味ですごい!”
と思ったりするのです。すると自分は身長だけでなく、考えも小さかったなぁ(笑)なんて思えて少し優しい気持ちになれます。

もう一人の自分

 しかし、“良かった探し”は程なくしてつまずきました。それは簡単なことではなかったのです。対人関係ではまさに、もう一人の自分が現れます。それは自分に都合が悪いことが起こった時などに平常心を持って対応できないことです。“こんなことやってられない”との思いが湧いてきます。息苦しさを覚えます。私は道端の草の強さにも到底かないません。道端の草は踏まれても、毟られてもまた頭を上げてどんどん成長している。私は草を踏みつけたことも毟り取ったことも謝らずに当たり前だと思っている。そして対人関係でも自分が正しいと考えてしまう。そう思っているところにもう一人の自分が潜んでいます。

すべてのものに南無阿弥陀仏

 年齢を重ねてきた今、時間を取り戻すことはできない。けれど今からでも新規まき直して頑張ることはできる。今は子育ての時期に遊んで挙げられなかった分を取り戻そうと孫(四姉妹)とよく遊びます。ゲームをして本気で孫に“ずるい・ずるい”と連発しているのです。課題はたくさんあるけれども、ああすればよかったはもういらない。今、私は「すべてのものに南無阿弥陀仏」の感謝の気持ちで毎日を過ごしたいと、それのみを考えて過ごしています。

合掌

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