光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 覚悟してかかる

山本サチ子

 その朝、私は庭で植木の手入れをしていました。すると我が家に隣接する小学校から子供の合唱が聞こえてきました。
  夏も近づく八十八夜  
  野にも山にも若葉が茂る
  あれに見ゆるは茶摘みじゃないか  
  あかねたすきにすげの傘
  
 透明な美しい音色です。懐かしいその歌声に思わず立ち止まり聞き入ってしまいました。あぁ、なんて素敵な歌声なのでしょう!音楽室から聞こえてくるその音色は、私をふんわりと優しく包み込んでくれました。幸せとはこんな時間なのですね。音楽の先生も子供達の姿も見えないけれど、一生懸命ピアノを伴奏する先生と子供達の様子が目に浮かびます。「ありがとう」。私は思わず校舎に向かい合掌していました。       
◆世界中の大問題であるコロナ禍の影響により三月末から小学校の休校が続いていました。今までひっそりと静まり返っていた校舎から聞こえて来る歌声です。何カ月振りでしょう。こんなに心に沁みる歌声を聞いたのは。とてもしみじみとした気分になりました。毎日コロナ禍のニュースばかりの日常に灯火が灯されたのです。そういえば今朝学校のチャイムが久方振りに鳴っていたけれど、やはり授業が始まっていたのです。六月の朝のことでした。 

今をどの様に過ごすか

◆世の中の今の状況では月並みな言い方ですが、「むやみに動かないこと」そして「生活に必要である最低限の動きに留まること」だと思って行動しています。そのようにしなければ収まらないと思い生活していたのです。ところが私のこの「志」は一本の電話で迷いの中に引きずり込まれてしまいました。電話は四歳になったばかりの孫娘からでした。
 「今から遊びに行きたーい」咄嗟に私は「コロナが流行っているから駄目よ」と答えます。電話の向こうから「行く・行く」との叫びが聞こえてきます。その瞬間私は思いました。「ハイ」と言って引き下がる親子ではない。まず、昼食の準備をするしかないとの思いが頭をよぎります。電話を替った母親(娘)が曰く「マスクを着けさせていきます。長居はしないから」。そして車で三十分程、大喜びの様子で我が家に到着。四歳児は大きな声で「こんにちは、今日はいっぱいここで遊びたーい」。家に入るとすぐに、三昧仏様の前に向かい、小さな手を合わせ大きな声で「ナモアミダブツ」次に「南無阿弥陀仏」と言い直したのでした。孫(四女)が仏様に一番先に合掌してくれたことをとても嬉しく思いました。私達は昼食を食べ、近くの公園へと向かいました。
◆よし、今日はこの子と一生懸命に遊ぼう!と思いブランコやかくれんぼ、そしてグラウンドを駆け回ります。しばらくして疲れたので「家に帰ってテレビをみよう」といったら「テレビなんかつまんない。かくれんぼがいい」と言います。そんな訳で馬鹿なおばば振りを発揮すること数時間。この二人はすぐに帰る予定のはずでしたが夕方まで遊んで行きました。満足して帰る親子を見た時、仕方ないことなのかなぁと取るべき行動の迷いを感じました。このコロナ禍を乗り切るためもっと対策を考慮しないといけないなあ、と思いつつ、いまだ具体策が浮かびません。ときとして自分の思う通りにならない場合があります。それは私が毅然とした態度で応対しないからかもしれません。しかし家の中だけに籠もることは私も家族も精神的に滅入ってしまいます。自分をコントロールできません。情けないと思います。これからまた厳しい自粛生活をどのように暮らして行けば良いのか思案中です。

読書

◆『ペスト』は一九四七年のカミユの小説です。フランスで爆発的な熱狂が起こったいわゆる感染症と、そこにいた人々の動向を描いた作品です。この作品の内容は今の新型コロナウイルス感染症とは時代も社会背景にも違いがあります。「不条理の哲学」が初めて具体的表現をもちえた作品でもあります。今このような時代だからこそこの作品を知りたいと思いました。主人公の医師のリウーの立場から、多くの市民の様子が描かれています。今世界中の人々が戦っているコロナウイルス感染症とは歴史的にも世相にも違いがあり強烈な現実を描いた素晴らしさがあります。これまでの歴史に登場してきた感染症を無視することはできません。そんな状況を参考にしながら私もコロナ時代を乗り切るにはどうすればよいのかと、読書に至りました。私は宗教上から物事を考えていきたいのでこの作品の主人公のようには生きられませんが、どう過ごすかと言う点では参考になりました。

結び

◆毎日家に籠もっているとさまざまな思いが脳裏を霞めます。これまでの自分の行動、それは念仏の仕方や他人との対応等で頭の中は一杯です。もしも現代に法然上人や弁栄上人のような聖者が存命していたとしたならば、このコロナ禍の時代とどの様に向き合われるのか? と想像しています。それはやはりお念仏なのかもしれません。しかし、いずれにしても前進するためには自分なりの思いが必要であり、昨日より今日一日は違うぞとの覚悟が自分には必要であります。それにはやはり念仏の他に方法がないと思うのです。以前までは「人間の煩悩は己で解決する他に道はない」と思っていた頃もありました。けれども煩悩のかたまりの解決なんて大それたことはどうしても不可能です。如来様に御すがりする他に道は無いのです。人は嘘をついたり、嘘泣き、嘘笑い等数え切れないほどの嘘で固められた部分があるのです。「貪・瞋・痴」はどこまでも続きます。皆弱い人間だから、手を繋ぎ念仏をすればいいのでしょう。けれども、この簡単そうなことがひどく難しい課題なのです。このような時代であるからこそ声を高らかに「南無阿弥陀仏」と称え、毎日の不安な気持ちを如来様におすがりする他に最善の方法はありません。念仏をお称えすることが出来る幸せをただただ実感しています。  
  煩悩の賊もミオヤに帰しぬれば 
    裏がへしてぞ菩薩とはなれ

       山崎弁栄上人お歌 

合掌

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