石川ゆき絵
コロナウイルス感染者数も亡くなったかたの数も世界2位のブラジルより、思いついたことをつらつらとお話しさせてください。
ここ数日、去年の唐沢山お別時のことをしょっちゅう胸に思い出しております。1年前のちょうど今日、8月26日に唐沢山を下山したのでした。
あの日、唐沢山で、その数ヶ月後に世界が疫病に覆われることなど想像できませんでしたが、今年に入りあれよあれよという間に、ブラジルも自粛政策がとられ、3月には、レストランは閉店せよ、という政令が下されました。
仕事ができず家に閉じ籠もっている先行きの見えない不安、未知の疫病への恐怖を抱えた悶々とした日々において、礎としてお念仏があったことが大変な強みとなりました。むさぼるように何度も読むひかり誌にも大きく救われました。まさに如来様におすがりする日々が始まりました。
インターネットのニュースで世界の様子を毎日見守る日々。特に日本のニュースはかじりつくように追いました。そこに思い出したのは、去年唐沢山をおりたあとのいくつかの出来事です。
ひとつは、浜松町の駅で自動改札に間違って切符を入れてドアが閉まった時、物凄い勢いで職員さんが走ってきて怒鳴られたこと。
「そこ早くどいて!! はい、こっちにすぐ来て!!」。後続のかたに舌打ちされ周囲のかたの冷ややかな目に身が竦みました。東京暮らしを5年間体験しているわたしにとっても恐ろしい出来事でした。「そんな怒らんでもいいやん」と胸がドキドキ。
分刻みの時刻表が存在し、たくさんの人々が列を乱さず、流れを滞らせずに動いている社会には、お年寄りはとても入っていけないだろう、みんなこんなに速く歩いて、選ばれた者しかこの社会では生きていけないだろう、と感じました。
電車の中で倒れている人がいても声をかけにくい、と東京に長く暮らす友人は言います。ただの酔っぱらいだったら恥ずかしいし、何より声をかけたときの周囲の冷たい反応が怖いからとても声なんかかけられない、と。
別の友人は、会社で上司から理不尽ないじめにあっている話をしてくれました。親しい同僚にやっとそのことを話すと「そんなつらい思いをしていたんだね。気がついてあげられなくてごめんね。」と同情をしてもらえたけれど、その同僚が意地悪をする上司に対して物申すことはない。上司と同僚の談笑の横でじっと俯いて涙を堪えながら仕事をしている、と。とてもしんどそうでした。
もうひとつ去年の帰省で印象に残ったのは、実家に帰って4年ぶりに会った父が当たり前のように「終活せなならんのだ」と言っていたこと。お国が老後のためにお金を貯めろと言うのだ、と。
就活ではなくて、終活!? なんてひどい言葉をこしらえるのだろうか。ずっと長いあいだ年金も税金を納め続けてきた老人に言う言葉じゃない!! と憤りを感じたけれど、どうもみんなそれを当然のように受け止めている。
なんて冷たい社会になったんだろう。弱い者がどんどん生きにくくなる世界。
世界がコロナウイルスに覆われてますますその思いが強くなりました。自分の身を自分で守れない者は死んでも仕方がない。空気を読んで波風をたてず自分の家族や近しい人だけ幸せだったらいい、犯罪も戦争も対岸の火事、というようなこの世界。
想像力の欠如、そして思いやりのなさ。格差や差別を生んだのはわれわれ人間の愚かさによるものなのに、人間を分断し侵略を繰り返し奴隷制度をつくった過去を悔い改めるどころかさらなる格差をつくりたがる人たち。近い将来のことすら想像できず、世界規模で地球規模で物事を見ることができなくなっていく人間。このあたりのことはブラジルの現状も日本とほぼ同じです。わたしはコロナウイルスの蔓延よりもそんな人間の増殖がはるかにおそろしい。
コロナウイルスが悪者でそのせいで規制されている、と思いがちですが、コロナウイルスが蔓延する以前にもわたしたちは制限されていたなぁ、と感じます。経済という規制。お金がないとなーーんもできない、稼いで遣わないと動かない社会。だからいまコロナウイルスは終息しないけれど世界は「動け」と言っている。
わたしはコロナ禍が終息しても、全くの元どおりには戻りたくないと思っています。すべてを自給することはできないけれど、なるべくものをお金で買わないですむ暮らしを目指したい。種を蒔く、芽を育てる。身土不二。いちばん自給したいのは心の状態。仏道の実践。これはもう、如来さまがいてくださるから鬼に金棒。土は如来様。わたしは土から離れては生きていけない。
さて、ブラジルは感染者数もピークのまま横這い状態にありますが、7月半ばから段階的に制限が解除され、わがレストランも8月から開店しました。
恐る恐るお客さんをお迎えし営業しておりますが、やはり人と人が生身で直に触れ合うことはとても大切だ、と改めて感じています。「美味しかった」の言葉や「戻ってくるのを待っていたよ」の笑顔を直で見ることができるのは大きなしあわせです。
インターネットのリモートでの会話や会議にて、実際に会えなくとも絆を深め合うことができるネットワークシステムをありがたく受け止めているのですが、それと同時に、隣にいる・目の前にいる存在感というのはなにものにも変え難い強い力量があります。
みなさんで集うお別時では私語を交わしませんけれど、単独別時とは全く違います。お念仏の振動はスクリーンとスピーカーを通しても伝わらないものがあります。お隣の先輩や御上人様たちの木魚とお念仏、それらが融合してあの波動となり如来様への恋慕が募る。
ちょうど1年前にお別時でご一緒させていただいたみなさまが恋しくてなりません。ポンと肩を抱き笑顔をのぞき込みたい。みなさまが元気に集われて声を合わせてお念仏なさる振動を想いながら日々精進してまいります。
合掌