光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 未来に向かって

山本サチ子

日々のコロナ禍が続く中、私は孫娘の幼稚園帰りの面倒を見ています。とはいいつつも自分の方が面倒を見られている気さえしてしまうこともたびたびです。目的地までは電車に乗り十三分を要します。ラッシュ時間を避けてはいますが、やはりコロナ感染を考えると油断はできません。そう思いマスク、帽子、マフラー、手袋を身に着け、おまけにサングラスを掛けて娘宅に行った時のことです。突然孫娘(三歳)が「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら逃げて行きました。さすがにこの格好はまずかったのだと気が付き、サングラスを外したらやっと祖母であることを認めてもらえたのでした。仕事を終え帰宅した娘にこの事を報告したら大爆笑です。何事も加減することが大事なのだと気付かされた一幕でした。

遊びの中で

 今日は何をして遊ぶの? と孫が私に問います。「まず手洗い、うがいをしてからおやつを食べましょうね」なんだか幼稚園の先生になったような気分です。それからピアノの練習を三十分位します。孫は積み木遊びをしたいといいますが小型犬(もこちゃん)は積み木をかじるから駄目と言って庭でかくれんぼをしました。すると愛犬「もこ」がワンワンといいながら駆け寄り、すぐに私達を見つけてしまうのでした。さすが犬! 隠れても臭いですぐに見つけてしまうのだから。こんな時間がとても幸せなひと時です。気がかりなコロナのことも一瞬忘れさせてくれます。今は緊急事態宣言が国から出されたために訪問は自粛していますが、この状況がいつまで続くのか不安な毎日を過ごしています。

友との触れ合い

 コロナ禍の続く毎日、私は手紙や電話で友人たちと触れ合いながら暮らしています。
 そんな中で友人に光明主義の事を語ると耳を傾けて下さる方がいます。その方には『如来様のおつかい』河波昌著、や漫画本『山崎弁栄とその影響者達』光明会 近畿支部発行 を送付しました。加えて『霊性の哲学』若松英輔著、と『名僧列伝』紀野一義著、等も読んでもらいたいとメモで付け加えます。かねて私は光明主義の教えがよく見えなくなった時にこれらの本を引っ張り出して読むようにしています。そうするとつまずいていた気分から解放されるのです。このことはきっと光明主義を違う視点で見ている人の率直な意見が安心感をもたらせてくれるのだと考えています。
 友人は『霊性の哲学』から山崎弁栄上人を改めて意識するようになったと言います。そして「書店で『人生の帰趣』を購入し読んでいるがとても難解であることと仏教がこれ程深い教えであることを今まで考えてもみたことがなかった」と言います。「今まで聞いたこともなかった「ことば」や「漢字」「教義」が書かれている。大変なお方(本)ですね!」と語ります。「少しずつですが読書を続けます…」と手紙には書かれてありました。私は彼女を念仏に誘いたいのですが彼女の主人が病気のため念仏道場には誘うことができません。そんな彼女に私は「南無阿弥陀仏」を仕事をしながらでもいいからお称えするように伝えています。そして別の友人は「あまり宗教には入り込まない方がよい」と真剣なまなざしで私に忠告します。人はそれぞれであるけれど、私からすれば宗教を持たない人に少しでも興味を持って欲しいのです。人は大いなるもの、尊厳性なるものを常にもたなければ自分が偉く見えたり勘違いをしたりもします。どれ程に学問をしても念仏とセットで進まなければ人格の完成には至らないでしょう。私に「宗教に入りすぎるな」と語る友人は「これまで懸命に人生と闘ってきた。それだから人生に悔いはないと申します。」果たしてそうでしょうか? 自分が立派にやり遂げたその裏にはその犠牲になった者が必ずいるはずです。そのこと一つを考えただけでも「南無阿弥陀仏」を申し自分が偉いと勘違いしていたと南無阿弥陀仏に込めて申すことの大切さを伝えました。これは理屈で解決できることじゃないとも伝えました。ここまで言えるのは古き友であるからこそだと思います。念仏に反対していたこの友も最近はなんだかんだと連絡をしてくるのでお念仏が大分気になっているようです。そんな友から先日コロナ用のマスクが届きました。小包の中には「埼玉は感染者か多いから厳重に注意せよ」の内容のメモの走り書きがありました。それは医療用に似た立派なマスクでした。友は有難い! 私は周囲から支えられていることをつい忘れてしまいます。駄目な自分に気落ちする。もう一度周囲に感謝の念を持とうと思いました。

世の人の心を照らすみひかりは 
 いかなるものもさえぬなりけり

  山﨑弁栄上人お歌

 私は偉大な先人たちの御教えを一生知らずして人生を終える人を放っておけません。友に仏教本や良書と信じる本を薦めましたが、後で失敗したなと思うこともありました。自分が素晴らしいと感じた良書でもその人にとっては少しも素晴らしいとは思わないことがあります。そんなことも解らずにこれを読め、とかあれが良い、などと語っていたことは相手の立場や思いを考えて行動しなかったなと今では反省しています。自分がどれほど良いと思ってもそれはその人にとっては違うのです。実に一歩一歩、歩み寄り受け入れて頂く大切さを感じました。光明会の発展を願い光明主義に帰依し、弁栄上人の御教えを守りたい気持ちであるならば尚更あせりは禁物です。自分がこんなことではとても人の気持ちを動かすことなどできないなぁ…との思いが募ります。そんな時は「ぐっすり寝てまた明日から頑張ろう!」と自分を励まします。「宗教に入り込み過ぎるな」と語る友人も「宗教を受け入れている私」もさほど煩悩の度合いは変わらないのではと考えてしまいます。
 心の垢を取り除くことは容易ではありません。もしそこに違いがあるとすれば、それでも「山崎弁栄上人の蒔かれた信仰の種」を広げなければと思うところだけなのかも知れません。
合掌

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