石川ゆき絵
去年の暮れに日本に暮らす先輩がわたし宛に書籍を郵送してくださったのだが未だに到着しない。コロナ禍によりここ1年以上ブラジルは諸外国からの郵便物をいま受け入れていないのだ。
人の行き来にも厳しい制限が設けられていて、今現在わたしが日本へ行こうとするとPCR検査や隔離措置など様々な難題が待ち受けていそうだ。これらの政令措置は心理的にもずいぶんと重く感じる。閉じ込められているような感覚に近く、それはどこの国に居ても多かれ少なかれ感じることではあるだろう。
マスクをする、という行為も実質的に呼吸がしにくいと同時に口を塞がれているようで、発言をも制限されるような感覚に陥ってしまうし、自由を拘束されているようにすら思える。光明会の集まりもなかなか出来得ぬ状況だということをひかり誌で知り無念に思うが、ここブラジルでも教会のミサはことごとく中止されている。信仰を持つ人たちにとってこの制限は、なかなかの苦境といえる。
キリスト教の禁止を目的に日本が鎖国をしていたのは封建体制下の江戸時代だが、あの時代のキリスト教弾圧を読むと胸が痛くなるような残酷な内容が多い。信仰は自由ではなく人の行き来も制限され、人々にとってたいへん苛酷な時代だったことがうかがえる。時代は巡り、日本は開国され、誰もが世界中のさまざまな国に行く、あるいは住むこともできる社会になった。ブラジルに最初に日本移民がやってきて早百十三年。商業都市のサンパウロには移民の子孫の二世三世たちが多く暮らしている。各宗派の仏教寺院も存在し移民のための葬祭仏教は健在だ。
カトリックの国ブラジルに暮らすわたしだが、外国人、しかも異教徒である、ということで差別をされたことが一度もない。差別されない理由を考えたときに、ブラジルは人種のるつぼ状態であらゆるルーツをもつ人間が暮らしているということがひとつ、気質としてブラジル人がおおらかである、ということがひとつ挙げられるのではないかと思う。
うちの食堂のお客さんのなかにも気軽に『らいはい堂を見たい』『祈ってほしい』と言うカトリック信者も多くいらっしゃる。ブラジル人に特有な性質として、好奇心が旺盛、形式に囚われない、という美点があるが、たとえば仏教形式のお勤めをするお葬式でも出棺の際には参列者みな胸の前で十字を切ったりするのだ。
このあたりの自由さはわたしの大好きなブラジルの美点でもあり、もうひとつ長所をあげさせてもらえば、お葬式や法事の際に参列者は服装に細かくない。日本のようにお通夜ではあわてて駆けつけた感を出すために平服ではあるが暗い色、とか、喪服におけるあらゆるルールなんてものがないのだ。日本はその辺りのしきたりが厳しすぎる点が、信仰やお寺への敷居を高くしているとも言える。ブラジルのお葬式では、ジーパンとスニーカー姿、ミニスカートの参列者が多々。これはとてもいいことだと思う。さまざまなルーツの人間が暮らしており、みな自由に信仰を持ち自由な装いでミサや法事に臨む。それがブラジルだ。
ブラジルと同じく大国のアメリカにも種々様々な人種が暮らしている。しかしアメリカはブラジルとは違い人種差別が甚だしい。公民権運動からいったい何年経ったというのだろうか、それなのに黒人差別はなくならない。
昨今ではアジア系の人が暴行を受ける事件が相次いでいる。コロナウイルスがアジアの中国から発生したのが理由!? 当然そんなことだけではない。アジア人へのヘイトクライムもはるか昔からアメリカに存在する。有色人種がとても多く暮らす国なのに、何故だろう。
アメリカと似たような新興国だけれど、ブラジルは人種差別はとても少ない。先にも述べたがもう一度言う。わたしたち家族は日本人だという理由で差別的ないやな思いをしたことが皆無だ。これはとてもありがたく素晴らしいことだと思う。
しかし反対に、日本移民が褐色の肌をしたブラジル人を差別する場面には多々でくわす。移民一世の日本人の老婦人が、孫の結婚相手が黒人だから、ということで激しく憤っていたことがある。「立派な日系人と結婚すればいいのに、あんな半グロと。せめてシロだったら良かったのに」。黒人のことを『クロちゃん』と呼ぶ年配の日本人はとても多い。
黒人イコール悪、という図式を胸の中にもっている人はブラジル人の中にも多いように感じる。何故か。それは犯罪者の多くが黒人だから。なぜ黒人が犯罪を起こすことが多いのか。それは黒人は貧しい人が多く金銭を渇望しているから。なぜ黒人は貧しいのか。給金を多くもらえる仕事に就けないから。なぜ!? 学業に金銭を費やせない家庭経済状況だから賃金の安い肉体労働などに従事する傾向にあるから。賃金の安い肉体労働に従事できない人もたくさん発生する。結果、食べていくためにやむを得ず犯罪に手を染める。強盗やドラッグ関連の犯罪に圧倒的に有色人種が多いのは、こういう仕組みからだ。著しい格差社会の蔓延。
この格差社会をなくそうとしたのが前政権であり、すべての国公立校は授業料も給食代も無料だった。ブラジルの素晴らしい点は外国人にも門戸は開いており、うちの娘はめでたく国立大学に合格し、まったく金銭をかけずに学業にいそしむことができていた。貧しい家庭の子どもも金銭のことを気にせずに学びたいだけ学ぶシステムが出来上がっていた。
しかし現政権に変わったとたんに国立大学の給食費と寮費は有料になってしまった。このままいけば授業料も発生するかもしれない。もっと悪い方向に進めば、外国人は留学生以外は大学で学べないなどの扱いも無きにしも非ずだと懸念している。
格差をなくそうと国を挙げて取り組もうとしてきたのに政権が変わった途端にバーーンとひっくり返される。格差はあったほうがいい、とする人も存在するということが否応なく解る現政権の処置だと思う。
さて、日本はどうなんかな。外国人も多く暮らすようになっている今の日本だが、お隣はアジア大陸ということもあり在住しているのは東洋人ルーツの外国人が多いように見受けられる。西洋人も増えているだろうが、そんななか日本人が好感をもつ外国人は圧倒的に白人ではなかろうか。白人は友好的で社交的でほがらかで容姿端麗、という印象をもつ日本人は多いんじゃないか!?
このことについては始まりがどこなのかは全くわからないのだが、自分のことを言えば、わたしは子ども時分に、金髪碧眼は美しい、という概念を脳味噌に植え込まれたように感じるのだ。リカちゃん人形よりバービー人形のほうが美しい、という観念の植え込み。リカちゃん人形だって体のバランスとしてはスマートで素敵だけど、やっぱりバービーがいちばんかっこいいし市松人形はだいぶダサい、というように日本的なものがどんどん排除されていった。
大人になってからは、アラブ系の人は恐ろしい、という植え込みも多大になされたように感じる。その辺りがイスラム教への差別にもおおいに繋がっていると思うのだ。思い込みによる憎悪、思想を植え込まれることにより差別する対象を知らず知らず持ってしまう人は確実にいる。みんな違ってみんないい、を謳った金子みすずさんは『蜂と神様』という素晴らしい詩もお遺しになった。
蜂と神様 金子みすゞ
蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神様のなかに
そうして、そうして、神様は
小ちゃな蜂のなかに
これぞ今現在の差別や格差、分断が蔓延する世にむけて高らかに歌いたいメッセージだと思う。ひとりひとりの人間を大切に思ったときに、各々性を思うとき、差別という概念は消えるのではなかろうか。
白は白 黄は黄のままに 野の小菊
とりかえられぬ尊さを咲く (田中木叉上人)
南無阿弥陀佛