光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 戦争

山本サチ子

 散歩をしていると鳥のさえずりが聞こえました。耳を澄ませば今度はさらに大きな声で「ホーホケキョ」と上手に鳴きます。私は林の側に佇みその声の美しさに聞き惚れました。あぁ…なんて美しい音色で鳴くのでしよう…この美しい鳴き声をウクライナで戦争に巻き込まれている人々にも聴かせてあげたいと思いました。美しい鶯の音色とは裏腹に私の胸の内は穏やかではありません。どうすれば世の中から戦争というものが無くなるのでしょうか?
 私の母の弟が大学4年生の時に学徒出陣で徴兵されて戦死しました。弟の死を悼み母は涙ながらに幼い私に悲しい出来事を話すことが度々ありました。それは私が高校生になってもずっと語り続けられたのです。その悲しみは母にとって時間が解決する問題ではなかったのでしょう。その弟の死、つまり私の叔父の死がきっかけで私の祖母は亡くなったのです。女系家族六人のなかにやっと男の子が誕生した時、祖父母は天にも昇るほどの喜びであったと聞かされていました。その一人息子がビルマ(現在のミャンマー)で戦死したのです。ある夜の事、夕食を終えて家族が団欒していた丁度その時、玄関の外でコツコツと人の歩く靴音が聞こえます。耳を澄ますとまたコツコツと靴音が聞こえたのでした。祖父が玄関まで行き確認したが誰もいません。家に入るとさらに大きな靴音が聞こえ家族は風の音ではないのに確か靴音がした変だね…と話していたのでした。その翌朝に叔父の戦死の通知が届いたのです。叔父は慶応大学四年生の秋に出兵しました。戦死はその一年後のことです。息子の戦死の知らせを受け取った祖母はそれから床に就き、ほどなくして亡くなったのでした。
 私は戦後生まれであるから姉たちの様に悲惨な戦争は知りません。けれど姉たちは母と共に戦争を知っていてよく妹の私に戦争の悲惨さを語り聞かせていたのです。長女は師範学校に入学したのですが毎日工場で戦争に使用する部品を組み立てさせられて勉強どころではなかったとよく話していました。そして三番目の姉は小学校五年生の時にクラスの級友たちと兵隊さんを元気付けるために手分けして手紙を書いたのだそうです。二ケ月くらい経ったある日の事「兵隊さんから手紙の返事が返ってきました」…と担任の先生が知らせて下さり、朝礼で全校生徒の前でその手紙を読まされました。文面は「弘子ちゃんお手紙ありがとう!お手紙を読んで本当に嬉しかった。お友達と元気に遊んだり勉強をしたり、お家の手伝いをしたり、日本の皆さんの様子がとてもよく伝わってきてとても嬉しかったです。今日はなんて素晴らしい日なのでしょう。本当にありがとうございました。内地のみなさんが元気に頑張っているのだから僕も頑張り戦争に必ず勝って日本に帰り日本での生活がしたいです。」…とこんな手紙の内容であったと姉から何度も聞かされていました。私は五年生になるまで子供心にずっと、「どうして戦争なんかするのかな? 皆、仲良くすればいいのに」…と思い続けていたのでした。何故戦争をしなければならないの?その疑問を小学校のクラス担任に質問すると「先生もよく分からない」…との答えが返ってきたのです。それでいいのかな?小学生の私の大きな疑問でした。親に自分の疑問を語ると父は「先生には話したくても答えられない大人の事情もあるのだよ」…との返答でした。大人とはなんて変な人達なのであろうか…と小学生の私の心の声が大きく膨らんだことが記憶にあります。

〈戦争で平和が手に入るのか〉

 戦争で人類は幸せになれるのでしょうか?戦争で利益を手に入れることが出来た人間や国があったとしてもそれはごく一部の人間だけでしょう。勝った国も負けた国もどちらも大きな犠牲を払っているのです。……戦争をして平和を手に入れるなどあり得ない。莫大な財源が手に入り英雄気取りになれたとして、それでどんな幸せを手に入れることができるのか? 取り返しのつかない大きな犠牲の上に立つ利潤など到底平和からはほど遠いものです。人間が人を殺し、そこから奪った国益で人間の幸せを買えるものではありません。お釈迦様はこの世の混乱をどれ程お嘆きあそばされていることでしょう。考えたらゾッとします。
 歴史を辿っても地球上では戦争の無かった時代はおそらくありません。日本では徳川家康が国を治めるようになってから江戸時代の二百六十年位の間でしょうか。その間は、日本文化が発達し、戦争のない時代が築けたときがあったと言えるかもしれないが、庶民が真に平和に暮らせたかはまた別です。いつの時代も貧富の差がありその日一日食べていくことがやっとという人々が沢山いたからです。しかし戦国時代と比べたら多少でも穏やかな日々を過ごすことができたことも確かです。平和を手に入れることは難しい。平和は個人の心の内で決まるとも言えるからです。ならばやはり心のよりどころとして如来さまにおすがりして南無阿弥陀仏の生活をすることが如何に大切かが分かります。
 最近、私は学生時代に、光明会の佐々木隆将上人を導師として、千葉の五香善光寺で別時念仏が開かれた時のことを思い出します。お上人は別時念仏の心構え、いかにして取り組むか、その心のありようを懇切丁寧に語られたのでした。その時、戦争体験についても語られておりました。世界で戦争が起こっている昨今、私はあの時のお上人のお話が鮮明に思い出されるのです。佐々木上人は(明治40年~平成13年)著書『我が命の軌跡』四三六~四三七頁の中で次のような戦争体験をお残しくださいました。改めて著書を読んでみました。  

戦地を去るときに詠んだ歌、

 死すべき身にしあれど護られて  
  故国に帰る今日のうれしさ 

 長い六年間の戦地生活は、私にとって最高の三昧道場であった。人生は出会いである。第一は信仰深い母との出会い、第二は昭和六年、光明会との出会い、第三は戦地との出会いであった。この出会いも自分に蓄積した因がないと、このまたとない出会いの縁も、猫に小判である。念仏する時、随所に主とならせて頂くのである。

 どのような境遇に遭われてもそこを最高の三昧念仏道場となされたところにお上人の凄さがあります。今このことばが強く私の心を揺さぶる。上京して間もない頃、佐々木上人の法話を拝聴して滝に打たれた思いがしたのです。その思いが今、長い間の眠りから覚めて再び揺り動かされています。極限状態に置かれた人間が念仏を絶やさなかった崇高な綴りであります。真の念仏者になられた佐々木上人のようになることは自分にとって理想です。今こそ念仏の必要性をさらに世間に広めていかなければとの強い思いがいたします。世界の戦争をみていて佐々木上人の偉大さが改めて深く心に刻まれました。一歩でも先人たちや諸上人さまの御教えに従い実践に向かわねば…と身が引き締まる思いに溢れています。私達は今こそもう一度この著書を心読し如何にあるべきか行動するときではないのでしょうか。世の中は一人一人の心がけ次第で変わると信じて止みません。

戦場は豈はからんや浄土なり 
  弾の唸りは弥陀の呼び声

合掌 

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