光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 択法眼(ちゃくほうがん)

石川ゆき絵

 老眼がひどくなり、近くのものが見えにくくなった。白内障にもなってるのかな、いろいろまぶしい。半世紀生かさせてもらっているのだから、命の器である体は衰えていくなぁ、と、しみじみ実感する。老化をなげいても仕方がないので、これは如来さまからの「目に見えないものに焦点をあてなさい」という、しるべだと受け止めている。
 更年期を驀進中のわたしだけでなく、昨今の世は老いも若きも、目に見えないものにフォーカスする傾向にあると感じている。たとえば「自分自身」にベクトルを向けて、自分探しをするとか、スピリチュアルなものに関心をそそぐ人は増えたと思う。精神的なものだけでなく、自分の健康や肉体美に深く執着して男女とも体を鍛えるような傾向も強まったと思う。女性はとても強くなり自らの心身への探究に熱心になった。
 家長制であった昔は女性はないがしろにされていたし、女は「ひとりの人間」として存在できなかった背景があったと想像できる。お父さんのために、子どものためにと、自分を後回しにしてきた女性たちが、わたしだってひとりの貴重な人間なのだ、と自らを大切にし、女性の権利をしっかりと訴えるようになった現代の風潮を悪いこととは思わない。
 だがしかし、昔「個」をないがしろにしてきたがために、その反動というか跳ね返りで、今「個」ばかりにフォーカスしているように見える。むかしは家族でひとつのテレビを見ていたのに、いまでは家族で同じ部屋にいても、ヘッドホンで音楽を聴く者、携帯電話を見ている者、とそれぞれ各自が別々のことをしている。
 「自分探し」とか「いやなことはしなくていい」とかいう昨今の風潮には、恐れと不安を感じる。好きなことしかしないのだったら、なんの成長も進歩もないやんか。自分自身にばかりベクトルを向けていると、視野が偏狭になり肝要なものが見えにくくなるなぁ、と思う。
 日本では不登校の子どもが増えている。いじめられて自殺するくらいなら学校なんか行かなくてよい、とする傾向もわからんでもないが、そこには、そこに行き着くまでの間のジャブが全くない。
 学校イヤや → 辞めちまおう → おしまい。
 ぴしゃりとドアを閉めるのが早すぎる。スパーンと断ち切るのが早すぎる。人間同士の直接の意見交換やぶつかり合いがなさすぎやしないか。
 その点ブラジルの学校は、みんなでごちゃごちゃすったもんだして賑やかなものだ。日本の基準でいうならば、ブラジル人は全員「発達障害」となってしまうかもしれない。個性が個々の数だけあり、誰も誰とも似ていない。子どもも先生も本気でぶつかり合っている。
 ある日、娘の高校の授業でクラスの中にその日が誕生日の子がいた。授業中にみんなでハッピーバースデーを歌い大盛り上がり。歌い終わったあとはその子と恋人が盛り上がってキスをし始める。授業が進まなくてブーイングする生徒と、囃し立てて祭りモードに突入する生徒とがいる。先生は仕方なくそのカップルに少しの時間を与え、仲良しモードが落ち着いたら授業に戻るように言い渡して教室の外に出して授業を再開したそうだ。カラリとしていていいエピソードやな、と娘から話を聞いたわたしは感じた。
 中学生のとき苛められたことのあるわたしは、そのことを親にも誰にも話せなくてとても苦しんだ。学校に行かないなどという選択肢はなく、転校するなんて道もなく。なので必死で解決を図るために拙い知恵をしぼって考えたし行動もした。あらゆるジャブの応酬がそこにはあったと思う。やがて功を奏していじめはなくなった。
 いま中学の同級生にわたしがいじめられていたことを記憶する者はいない。いじめに加担していた者も「えーーっ、ゆき絵がいじめられていた!? 知らんやった」と言う。そう、いじめている側からしたらそれはいじめなどという事柄ですらなかった些細なことだったのだ。そんな些事のために自殺をしたり鬱々と日々を悩むのはなんてばからしいことか。しかし実際に生き死にに関わるほど追い詰められて、自死を実行する子どもがいるのが日本の社会だ。みずからの命をストンと切ってしまう。
 リモートワークも定着してきた社会ではあるが、人は人と関わらなければ生きていけない、というか、生きるべきではないとわたしは考えている。多くの人がマスクで顔の表情も見えず、みんなでワッハッハと笑顔で食事を楽しむことすらできにくくなったコロナ騒動ではあるが、そこから何を読み取るかは、如来さまからわたしたちに投げられた問いと受け留めることもできる。
 人と会わなくても仕事ができて簡易だなぁ、マスクしてたらお化粧しなくていいし楽ちんやなぁ、という思いにとどまるのは危険だと思う。人が人と触れ合わない世界が定着するのは人格の未成熟さを生み、人類が脆弱化すると思うのだ。
 リモートでお念仏もできるけれど、やはりリアルで集まってのお念仏の振動は、そこでしか生まれない。その太く深い波動を感じる場を失ってしまうと、人間は人間として機能しなくなる。
 自分の内側を探すだけでは何も見つからない。他者と関わることにより関係性が生まれて、自分に使命があることを識るかもしれない、自分の存在意義に触れるかもしれない。
 玉と石がごちゃ混ぜになった中から玉を選び取る眼のことを択法眼という。例えば情報。そこから何を読み取るか。いまの世に起こっている現象から何を読み取りどう行動するか。
 人それぞれさまざまな受け留めがあると思う。そこに自分の目・主観だけでなく、ほかの人の思いや目線をプラスして想像できたらなお良い。自分だけにフォーカスしてても肝心なものは何も見えないと思うから。杉田善孝上人が、とある人が宙に浮いて天井にくっついたことを揶揄なさって「そんなことはハエでもできる」と仰ったそうだが、その通りだな、と大笑いした。空中に浮かんだからといって、だから何だというのだろうか!?
  「自分は無宗教です」と明確に言う人が多いのが日本だが、神社仏閣を参拝したり十日戎で商売繁盛を祈ったり、またはスピリチュアル系の信仰に傾倒する人も多いのが昨今の日本だ。それはとりもなおさず現生利益を欲する人が多いということだろう。地縛霊が、とか、先祖供養が足りんから、御祓を、などの言葉に一喜一憂するのは、自分に主体がないからと見える。
 呪いを取り除けば病気が治ると言われれば藁にもすがりたくなるのはよく解る。しかしあまりにも他人任せでありはしないか!? とも思うのだ。自分自身のことを腫れ物に触るように覗き込んどるだけでは、心身は脆弱になってしまうばかりの気がする。
 高いお布施を払ってまじないのような施術を受ける、病気が治ると評判の教会に「病気を治してください」と祈願しに行く。百人にひとりくらいは病気が治るかもしれない。だがしかしそれは、そのお祓いや祈りによって治ったのではない。
 そんなに簡単に到達したいところに辿り着くわけがないのだ。一瞬で何かが変わるのではない。ギターを買ったからといってすぐには弾けるようにならないのと同じことだ。わたしは長い時間をかけて仏道をえっちらおっちら歩む。阿弥陀如来様を今も今も今も念じる。
合掌 

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