光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 戦後の人々の暮らし

山本サチ子

 戦後生まれの私は戦争を知らない。私の子供の頃の戦争の知識は、家族や学校のクラス担任から第二次世界大戦の話を聞かされたことくらいです。戦争を経験した人々からすれば私達子供は頼りない弱々しい存在だと思われていたかもしれません。友達とゴム跳びや石蹴り、縄跳び、だるまさんが転んだ等をして遊んでいる時に度々大人達の声がしました。「今の子供たちは幸せだなぁ…」と語るのでした。

〈友達の父親〉

 当時、毎日の様に遊ぶ友達に○○○ちゃんがいました。○○○ちゃんのお家は石屋と農業を営んでいました。彼女は、お父さんはあまり戦争の話をしたがらないと言っていました。私たちが遊んでいると彼女のお父さんが私を手招きして呼んでいます。私は「ハーイ」と返事してそばへ駆け寄ると「サッチャン、この石碑の文字よく見てみっせ。これはサッチャンのお父さんが書いた石碑の文字なんだぞぇ! 俺たち石屋はこの方丈さまの書いた文字を心を込めて掘るんだ。力の入れ具合や角度も考えて掘らねぇと出来上がりに魂が入んねぇのよ。方丈さまの気持ちがこの文字に込めてあるんだ。だから緊張して気が抜けねえんだよ」…と語るのでした。私は「ただ掘るだけじゃないのか!」とはじめてその思いに気が付きました。私の父と○○○ちゃんの父は繋がっていたことを知ったのです。しばらくしてから、またお父さんが言います。「サッチャン”ふいご”を見たたことあっか? 明日、ふいごを入れる日なんだよ。見にこねえかい?」 私はすかさず「見たいよー」と言ったのです。
 あくる日、○○○ちゃんと見た、ふいごの赤くて青い火に混じった光は音と共にすさまじい迫力でした。私は怖くなり一歩下がりました。花火とは違う鋭い光と音でした。焼けた金具のようなものを鉄パイプに似た道具で叩いています。私は「ふいご」はそれまで村の鍛冶屋でしかやらないのだと思っていたのです。彼は一言、言いました。「ふいごの火を入れると戦争を思い出すんだよなぁ…」私は、何十年も経った今でもあの時の○○○ちゃんのお父さんの表情とふいごの鋭く怪しい光と音が幼い日の記憶として鮮明に残っています。                        

〈戦後の暮らし〉

 次女と三女の姉二人は毎日農業をしていました。農地解放から辛うじて逃れることが出来た土地は一町一反程ありました。その田畑を耕し、姉達は家計を支えていたのです。我が家では家族が10人と戦争で親を失った子供などを含め13人~14人程もいて、その大家族を養うのに大変だったようです。ほぼ自給自足に近い生活でした。毎年少しずつ人数の入れ替わりがあり、いつも賑やかでした。父はお寺の仕事と時間があれば裏山で植林をしていたのです。毎年、山師さんが杉や桐の木等を買いつけに来ていた記憶があります。そのために山林の伐採跡地に植林が必要となり、私はその跡地に植林するために手伝わされていました。杉の苗木を一本ずつ父に差し出す仕事です。それが嫌でたまりませんでした。「山の手入れは実に楽しいものだ。なんといってもこの広い青空と山に囲まれた暮らしは幸せだなぁ」…これが父の口癖でした。裏腹に私は「友達と遊べないから少しも楽しくないのになぁ。」と思っていたのですが…。小学生の私にとって何時間もその仕事をすることは苦痛だったのです。そんな時に遊び友達の”しーちゃん”が裏山まで私を追いかけてきました。兄がシーちゃんを連れてきてくれて「サチ子、俺がかわるから遊んで来い」…と言ってくれたのでした。私とシーちゃんは転げ回るように山を駆け下りました。今でも私はあのときの兄の優しさと、しーちゃんのあどけない顔を思い出すとニンマリしてしまうのです。

〈姉の学校での出来事と農業〉

 終戦直後二人の姉はクラス担任から硯箱と筆を準備するように指示を受けていました。最初に国語の教科書を筆でぬりつぶす指示があったそうです。教科書を半分以上筆で消すことになりました。教科書は瞬く間に黒一色に染まったため、クラスの男子がこれでは先生、本が読めないよ…というと担任は「日本は戦争に負けた。これからは教育の仕方が変わるからだ」と言いクラスの子供達は唖然としたそうです。今までの事はなんだったのか? それからというものは、アメリカが如何に素晴らしい国であるか、と思わせるこれまでとは真逆の教育に驚き、姉たちは「これからは何を信じて生きていけばよいのだろうか?」…と世の中に対する不信感が膨れ上がったそうです。この話は姉たちが大人になり、私が小学生の時に二人から聞かされました。学校の卒業と同時に二人の姉は農業をして家族を守ろうと必死でした。近所の人達から稲作を教わり畑の作物の作り方や冬の作物の保存方法まで皆さんが丁寧に教えてくれたので本当に有難かったと語っていました。戦後のショックから立ちあがることは大変だった。けれども田んぼや畑仕事で食料をどこにどうやって保存するかも全部を周囲の人々が教えてくれたので何とか農業らしい仕事ができた。そして米を国が買い上げてくれたので生活が楽になったと言っていました。秋には稲穂が実り沢山の野菜の収穫もありました。「この悦びは農業を経験したものでないとわからないねえ、きっと。だから私達は幸せなんだよ、サッチャン。」…と二人は口々に語るのでした。父、そして姉達のそれぞれの幸福感を幼かった私はただぼんやりと聞いていました。

〈結び〉

 戦争は何故起こったのか? 子供の頃からの疑問がいまだに明確な答えが見つからない。それぞれの国の事情はあるのでしょう。小さくは自我の欲望、そして夫々の国の欲望に繋がったのか? しかしながらそれを阻止するため世の中全体の人々のこころを変えることは到底出来ない。ならばどうしたら良いのか? 人は私利私欲に走り、俺が俺がの気持ちで人生を送れば必ず最後にはそれが間違った歩みであったことに気が付くはずです。人命の尊さ、他人に対する敬意を持つ、そうしたことが現在では驚くばかり希薄になっています。自由をあまりにも謳歌したつけでしょうか。おぞましい社会問題が勃発しています。私は人間形成は家庭からだと思っています。何らかの事情で家庭崩壊があったとしても周囲が、あるいは地域を挙げて子育てをしていく。子供の少なくなった今こそ全体の力が必要なのです。地域と国が一丸となり健全な人造りに力を注いでいかねばなりません。豊かな愛情で接し、思いやりのある人間作りが必須です。宗教教育や道徳教育が希薄になっている現代の教育では到底困難です。しかしながら私は困難でも「こころの修養と仏教の実践」をしていくことが世の中の人々の健全なこころを築き和みのある土台作りになると信じています。その実践が肝要であると考えます。
 お寺や念仏道場はこれまでより一層若い人々を育成していくべきです。それには寺や念仏道場となる会所の敷居を高くしてはいけないのです。難しい教義を教えてやるばかりではなく目線を低くして人々に接することです。実行されている会所もこれまでより一層の気合いを入れた対応が迫られています。これが実践できれば弁栄上人が残された大きな御教えに近づき実践に繋がっていくことになるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏 
合掌

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