山本 サチ子
自宅から300mほどの所にタワーマンションが建っている。その庭を歩いていると優しい梅の香りがした。香りに近づくと、そこには七分咲きの紅梅がひっそりと咲いていた。風には冷ややかさが残るが、それはまさしく春の訪れを告げている。3月も目前だ。期末テストを終えたのか、帰宅する中学生たちの弾む声がする。春はそこまできている。
〈自然と春〉
子供の頃の春は希望に燃えていた。小学校への入学、新しい友達との顔合わせ、胸に下がった大きく名前の書かれたハンカチ。どれも誇らしさと嬉しさでいっぱいだった。家に帰ると早速その日に覚えたクラスの友達の名前を家族に告げた。期待に胸膨らむ待ち侘びた入学だった。その頃の淡い記憶であるが、子供達の喜びとは反対に大人達にはただならぬ騒々しい動きがあった。私の故郷である福島では、春の訪れと共に田畑や稲作の準備に備えなければならない。農家では種籾を温め、寝床を作り2~3日間、発芽するまで寝かせる。苗を作る作業の始まりである。発芽した籾を専用の苗代に蒔いた。苗が15センチ位の大きさに成長すると、その苗を田んぼに植え付ける。いよいよ田植えの始まりとなる。田植えをするには田んぼ全体の土を柔らかくするための代掻き作業もしなければならない。そして田んぼの周りの黒塗り作業も欠かせない。私は二人の姉達に「どうしてそんな面倒くさいことするの?」と尋ねた。答えは「冬の間モグラが穴を開けてしまうから水が漏れてしまう。だからすべての田んぼの周りを泥で穴を防ぐのよ」と言った。それにしても大変な作業である。まず三本鍬で泥を田んぼの淵に上る。泥の廻りの上下を鍬の背をコテの様に使い、ぬりかべの様に綺麗に仕上げていく。まるでプロの左官屋さんのようだ。私は感心して、「いっこちゃん、あやちゃんて凄いね」と愛犬のペルの首に両手を回しながら言った。二人の姉は「私達は田んぼ作りとお裁縫と編み物しかできないのだもの」と言います。「それって凄いよ。サチ子は鍬を持ち上げることも重くてできないよ」と言うと二人は笑って「大人になったら出来るようになるよ」と言った。
現在でも田んぼ作りはしていない。私にはあの田んぼ作りは一生出来なかった。
今ではスパーマーケットに行けば食料が簡単に手に入る。昔は田畑がない家でも自宅で食べる野菜を作るか農家から安く購入していた。どこの家でも野菜を育てていた。今のように欲しい物がすぐに手に入る時代とは真逆であった。野菜を育てる楽しさがあり、秋には農作物の品評会が公民館で開かれた。特賞や一等賞を取得した人は大勢の人たちに育て方を披露した。そんな時代だった。
冬の間、大人達は家族のセーターや襟巻きを編んだり、はた織をするお年寄りたちもいた。私の母も「はた織」をした。「ツートントン」と縦の糸の間に素早く横の糸を通し、上から手前に引く板の音がまさしく「ツートントン」と聞こえる。そうして春になると美しい反物が出来上がっていた。いつであったか、近所の若いお嫁さん同士が話している声がした。「田畑の作業がない冬の間は一年のうちで一番ゆったりできる季節だよね」と。雪国の人々にとって雪深い冬は骨休めできるホッとする季節でもあったのだ。
街には江戸時代の名残ともいえる川が道路の両側に流れていて、人々はそこで洗い物をしたり30メートル間隔に飲み水がコンクリート作りの円筒の管に絶え間なく流れていた。その水は飲料水や洗い物やお風呂用の水にも使われていた。それは現在でも壊されることなく街のいたるところにそのまま配置されている。この地域は雪解けの水で洪水になることは今も昔もない。すべての水が猪苗代湖に流れていくからだ。地域の人々は今も昔もこの湖に守られている。まさに自然の営みというものは有難い。その頃は自然と人々の暮らしが密接な関係で成り立っていた。大人達は近隣の人たちとお茶をしたり楽しそうに会話をしていた。まさに豊かな生活ぶりであった。
私の知る限りでは子供同士の「いじめ」はなかった。みんな家族のような間柄であったのだから。母の愛用していたはた織機は今でも実家の物置に保存されている。
〈地域社会と子供〉
全国どこでも少子化がおきている。私の子供時代はどこの家でも10人位の家族構成だった。小さな街とはいえども賑やかだった。自宅の裏の寺山に登ると小学校、中学校、高等学校が並んで建っているのが見渡せた。運動場からは生徒たちの歓喜の声がこだましていた。こだまは活気ある嬉しい響きだった。現在は少子化が進みひっそりとしていて昔の面影はない。町おこしは雪国であるという理由で進んでいない。雪国ならではの良さもあるのだから是非、町おこしに力をいれてもらいたいというのが私の個人的な願いでもある。廃校になった小学校やプールを使っての事業を興こせないものか? 地元に暮らしていない私が語ることではないかもしれないが諦めないで欲しい。諦めは全てを破壊するからだ。
〈結 び〉
つらつらと心の趣くままに書き綴ってみたが、人は大変な時期こそ立ち上がらなければならないのではないか。地域問題も光明会も共通する問題を抱えていると思う。少子化問題と同様に光明主義の山崎弁栄上人の御教えも存続発展させねばならない。それにはどうするのか。最近強く思うことがある。それはいずれの問題にしても、問題解決に向かうには強力な意志とチームワークが必要であり、その強さを蓄えるには「志を同じくした仲間作りが不可欠である。」何故一丸になれないのか? それは本当の痛みを実感できないからではないのか? 私は光明主義の御教えが萎んでいくことには耐えられない。自分の手をつねってみた。「痛い」。この痛みは「肉体の痛み」。光明主義が萎んでいけばこれは「心の痛み」である。どちらも辛いことだ。では解決策は有るのか? 私は当然あると思う。「諦めないこと」そして「一人一人が自分の痛みとして強い自覚を持ち立ち上がること」だと思う。どうしたら立ち上がれるか? 「対策を練る」。各会所で出た意見を本部で検討しまとめる。そして小さなことでも実行に移していく。「仕方がないよ。時代の流れだから」…と諦めることが一番良くない。何が、何処が問題なのかを考えてみる。やれることは小さなことでも試してみる。身辺の人に声を掛け、身の回りから購読者、あいは会員になって頂く運動でも良い。声を掛けることには勇気が必要である。自分を鼓舞してまず声を掛けていくことが肝要ではないか。誰かがやれば良いのでは? それでは駄目なのだ。光明主義の御教えを広めるためには肝心な会員がいなくては話にならない。今諦めたら光明主義の御教えが消滅に近づいていく恐れがある。山崎弁栄上人、そしてこれまでの光明会を支えてきた多くの人々の悲しみは量り知れない。
皆さん! 一緒にベストを尽くしましょう! そして決して後悔の無いよう一緒に考え行動に移そうではありませんか。
南無阿弥陀仏