高野山別時に参加して
金田 昭教
今年初めて、高野山・持明院の別時(8月1日~5日)に参加させていただきました。
振り返ってみれば、参加しようと思ってから終了まで、随所に如来様の御使者がちゃんとおられて、私が大切なことに気づくように仕向けて下さっていたことを、かたじけなく思います。また先達の上人が一緒にお念仏を称えて励まして下さったことは、たんなる思いや願いではなく真実のものであることを直感させていただきました。まさに高野山別時は「参加してよかった」というなまやさしいものではなく「もし参加していなければ今の私の信仰は・・・」と将来言っているのではないかと思うほど、心中に灯を点してくれたお別時でした。
導師の工藤真徹上人に接して、私の正直な感想を述べさせていただきます。工藤上人、とっても失礼な感想をお許し下さい。言うまでもなく私の無明のためでございます。私の眼がいかに濁っているか、いかに表面的にしか物を見ていないかを痛感いたしました。南無阿弥陀仏。
前半の2・3日のお話を拝聴して、私は「そんなことは知っとる。もっと上手に話せばいいのに・・」と思うだけで、知的にはまったく私の心に響いてきません。しかし、後半になると、何か私の心の様子がそわそわし始めました。具体的に表現できないものが流れ込んできて、私の中で何かが変わり始めるのがわかりました。「もっと如来様憶いになりたい、なんとなく如来様が慕わしくてしかたがない」との情的なもの。また「もっともっと精進しなさい、真剣に必死に念仏しなさい」との意志的なもの。この二つの呼び水のようなものが、法話の話の内容か、もしくはお上人独特の雰囲気でしょうか、なんにしても、私に注ぎ込んできて仕方がありませんでした。なぜ心境が変わったのか具体的には分かりませんが、とにかく、情的・意志的にたくさんの宝を頂きました。ありがとうございます。
参加者の方々からも、短い間にみっちりとお育てをいただきました。さすがに田中木叉上人、藤堂俊章上人、佐々木隆将上人、工藤真徹上人にご指導を受けて来られただけに筋金入りだと思わされました。そうでない方にしても、船でいうなら「客ではなく船員」という雰囲気でした。みなさんがとにかく私を育てて下さる。「若いのに感心ねー」等の、私を天狗にする悪魔の誘いがあまりなく、それどころか「一年修行してまた来いや」というような激励ばっかり。いやーとにかく、気づかないうちに伸びていた鼻をきれに剃って下さり、冷たい水で体を洗われるように、刺激的だけど気持ちよく、本当に痛快でした。
こんな心境の変化もありました。実家の寺の本堂に当たり前のように常備している田中木叉上人の「光明歌集」・・・この歌詞が工藤上人のお話を通して、また歌いながら味わうと、今までとなにかが異なり、どんどん胸に突き刺さってくる。この高野山の別時だからであると思います。このことは参加するとどなたでもよく分かるのではないでしょうか。
また、以下のようなお念仏の工夫を如来様にお誓いし実行いたしました。古知谷や唐沢山で維那をされている古田幸隆上人の念仏のお姿によってご指導いただき実行しております。それは「形をもって心を励ますこと」言いかえれば「心境の先取り」「如来様が真正面に在すと思う」ことを、口と心だけでなく、身体にも念仏させることです。とにかく、如来様が在すという行動を出来る範囲で色々とする。
例えば、黒衣如法衣や綺麗な足袋などの威儀を整えることはもちろんのこと、正座は続けられないからできる限りにして、せめて常に背筋を伸ばすこと、食事を綺麗に残さずいただく、休み時間の間に歯磨きや清拭して体を綺麗にする。途中の入退場など周囲の方の念仏の邪魔になる行動はしない。とにかく普段人に会うにしても、お慕いする方、尊敬する方が前にいらっしゃったら当然やるべきであることを色々実践しました。これは本当に皆様できる範囲で実践することをお勧めいたしたいと思います。「光明歌集」にある「せねばならぬの冷たさが、せずに居れぬの熱に湧く」との御示しと同じように「身体(形)→心」へせねばならぬが「心→身体」へせずにはおれぬに、少しづつ育っていくのがよく分かります。「背筋をのばさねば、綺麗な息で念仏せねば」→「のばさねばおれぬ、口内を綺麗にせずにはおれぬ」というように。
最期にすべて「船員」のみなさん、5日間ありがとうございました。多くの方から刺激をいただき、またお念仏の中でも、わけのわからない涙と共に、目からウロコがどんどんはがれ落ちる別時会でした。これからも、ご指導よろしくお願いいたします。一年間みっちり念仏精進してまた来年お会いいたしましょう。そして、また多くの方の参加を念願いたします。