近畿支部教学布教研修会
佐野成昭
午後の席
四、超在一神的汎神教の味わい
- 1、権勢や知力と安心
-
この世をばわが世とぞ思ふ望月の
欠けたることもなしと思へばと歌った藤原道長の死は、当時、天皇や釈尊の入滅に匹敵するとさえ言われ、正しく最高の権勢を誇っていた。一面では出家し、法成てらを造営したのであるが、臨終に際して阿弥陀尊像の手に五色の糸をかけてその端を確り握り、念仏を称えながら来迎を待ったと言う。信仰の成せる業であるが、これは後にお話しする田中芳子様の境地と余りにも差があり過ぎるのである。
また、平安時代の権勢者や知識人の到達点と、今日のそれでは比較にならないのであって、これを以て浄土宗の呪術性や文化程度の未熟の故とする場合もある。しかし、その様なことなのだろうか?何か本質的な差異があるのではなかろうか。
次に、勝れて知力の人の例を挙げると、二十世紀人類史上最高の知力の持ち主の一人を言われたユダヤ系ドイツ人(後、米国へ移る)フォン・ノイマンは、物理・数学・計算機・経済学など、幾つもの分野で超一流の人ですが、不可知論者で宗教には概して冷ややかであった。核爆弾の開発に携わったノイマンは、晩年、被爆して非常に苦しんで亡くなった由ですが、被爆が判った時点で宗教者に会いたがって周囲を驚かしたと言う。
常に例外はあるであろうが、天才中の天才であるノイマンは、第一級の知性が絶対の安心に繋がるとは言えない例でありましょう。 - 2、超在一神的汎神教の味わい
- 絶対的な権勢や知力でさえ絶対の安心に結び付かないとすると、我々凡夫は救われようがないと絶望するのであるが、ここに有り難い例がある。
それは光明主義のお念仏に霊育された田中芳子様の例です。(田中木叉『夜明くる空』)。この方はサラリーマンの夫人で、田中木叉上人の指導を受けておられました。その四十数歳の臨終に臨んで<いと小さき笹の小舟に似たりけり
いづくの浦に身を捨つるとも大慈悲のみむねの海に浮かぶ身は
津々浦々の波にまかせて菩提の岸につくための舟なれば
小さき舟といえど大切に大切にりゅう喨と夜明くる空やねはん城
諸仏の荘厳きわまりもなく大つごもりの苦患を払いてただ真実の
命の世界に永遠に生きるうれしさと五首の歌を記されました。
もうこれは、明らかにご来迎を受けているのであり、法眼も慧眼も拓かれていること、相当の高僧でも容易には到達出来ない境地にあることが知られます。特殊とは思えない夫人が、道長やノイマンも到達出来なかった境地に在ったと言うことは驚異です。熊野好月様や金山辯壽様などもその例ですが、恐らくサラリーマンの普通のご夫人であったと思われる田中芳子様は、田中木叉先生のお導を戴き、超在一神的汎神教である光明主義のお念仏に親しみ、大安心を得られたのであります。
田中芳子様の例も超在一神的汎神教たる光明主義の確かな指針になると信じられるのであります。 - 3、宗祖の皮髄とその周辺
- 田中芳子様は例外的天才ではないとしての話ですが、サラリーマンの夫人が、慧眼も法眼も開いていることは宗教者としては驚異のはずである。田中芳子様は孫弟子ですが、弁栄聖者在世中、この様な例は少なくなかったのであるから、浄土門の方々はこぞって弁栄聖者様の教えに傾倒するかと言えば必ずしもそうではなかった。
ここに知恩院会計課長の「宗祖の皮髄と弁栄上人 祖山教学高等講習会の思ひ出」と題した古い記事があります。その内容は、「往昔宗祖の大原談義に比すべきものだ」として、祖山教学高等講習会とその前後の消息を記してある。
誕生寺貫主漆間徳定師等の反対者は、講習会の最後例で弁栄聖者様の話を糾弾しようと待機していたが、反対に魅了され、最前列に移動するようなことだった。そして、日を追って弁栄聖者様の講義は二百人以上で満席の盛況となった。「さしもに燃え熾った山崎上人異安心呼ばりは何時の程にか讃仰の花形と変り実に一大収穫の下に此の講習会は終了した」
そして極めて重要なことには、「思ふに一宗は此の頃より其の教相指導は現代的に轉換して来た。」「笹本、藤本、淺井の諸氏の人格が一際抜んでて圓満な姿は今に忘れられない」とある。その時の大反対者の要請で『宗祖の皮髄』が出版される運びになったことなどが記されているのであります。
五、まとめ(幾つかのこと)
周知のことであるが、「一枚起請文」には「南無阿弥陀仏と申て疑なく往生スルゾト思とりテ申外ニハ別ノ子サイ候ハズ」、「此外におくふかき事を存ゼバ二尊ノあはれみニハヅレ本願にもれ候べし」、「ちシャノふるまひヲせずして只一かうに念佛すべし(『法然上人全集』仏教文学会422頁)とある。これが「但信口称念佛」の主たる根拠であろう。
一方、次の二首の歌
われはたヾほとけにいつかあふひくさ
こころのつまにかけぬ日そなき
かりそめの色のゆかりのこひにたに
あふには身をもしみやはする
は、「但信口称念佛」ではなく「憶念口称念佛」こそが重要であると言う根拠に挙げられるのである。二つの主張の差異は、観佛と見佛との差異を見失っていることに因ると思われるのである。また、
宗祖の御伝と聖光上人伝言とを比較すれば、聖光上人は正しく宗祖の真髄を伝えられたる上の伝書。御伝は天台の舜昌法印皮相より見たる見聞の纂集なれば、正に宗祖の霊的真髄を窺わんと欲すれば、二祖聖光上人の宗要等に依るべしと存じ候
『御慈悲のたより 上』427頁
と弁栄聖者様は語られ、その二祖上人は
念仏行者の所期は是れ見仏三昧なり (宗要 七十六)
と示される。更に弁栄聖者様は、
真理の終局に帰趣すれば仏界に入るなり。
仏界に帰するは真理なる故に、自然なり、法然なり。故に易往といふ
『光明主義玄義』76頁
と示されている。単に但信口称であるから易行なのではなく、「佛界に帰するは真理なる故に、自然なり、法然なり」であるから易行なのであります。この外、弁栄聖者様のお示しは幾らでも挙げられますが、
すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ大ミオヤはいつも離れず、あなたの真正面に在まして慈悲の面をむけて母の子をおもうごとくまします。あなたは其のみをおもうて専らにしてまた専らなる時は、だんだんと心が統一できて、あなたの心はみだの御慈悲の面にうつり御慈悲の面はあなたの心にうつり、而するとそれがだんだん深く入るに随いてあなたのこころはなくなりて、唯のこる処は御慈悲の如来さまばかりと成り候。
『御慈悲のたより 上』初版47頁
は、大谷仙界上人に示されたものえすが、五根五力の修行の段階から七覚支を超えて狭義の見仏から無限向上の趣旨が簡潔に示されています。更に、
礼拝儀は現在より永遠にまでの大ミオヤに対する御礼にして、またおやさまの光明を被りて永遠の光となる御法である。
『御慈悲のたより 上』初版291頁
は、先に記した宗教の定義の「永恒の救度求める」に完全に合致しているものです。弁栄聖者様のお示しは真に簡明で全く揺れがありません。
そして「大乗仏教中の円教なので夫を何人にも実行せしむるように伝道するにある。教祖釈尊及び聖善導尊者、法然尊者等の真精神の信仰に外ならず。(『安心問答』13頁)」でございます。
最後に、「願くば真面目に道を求むると云うよりは寧ろ熱誠に道を修して吾人の言の真理なることを証知し給わんことを希望するものである。(『安心問答』14頁)」と記して居られるのであります。
残されたことは、凡夫であることは仕方がないとしても、熱誠に道を修することでございます。「如来より賜はるものの中に最も貴重なるものは時間に候」でございますから、必然的に霊育てを被ることを目指すべきで、豪潮律師に真似るのではございませんが
空費時間過殺八万四千父母罪
と言うことになりましょう。
しかし、意が挫ける時は、徳本行者の
極楽に 望みなくとも 南無阿弥陀仏
うわの空でも申しておきやれ
弥陀の大悲で 三途にゃ陥ちぬ
知らぬから むつかしい事を言出す
南無阿弥陀仏を 申しや生るゝ
『徳本行者 言葉の末』同前掲
の二首は救いになっているのであります。
近畿支部の要請を契機に光明主義の入り口に立って観て、如何なる勝縁か弁栄聖者様の御教えに巡り遇った幸運を悦んだことであります。
合掌