光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.1 信後の感想 1

出典『ミオヤの光』創刊号 大正8年11月『縮刷版』一巻十一頁

信後の感想

中村 禅定

私は幼時、信仰の家庭に育てられまして無意識にも仏様は尊いお方である、有難いものであると心得ておりました。朝起きても仏様を拝まなければ朝飯は頂戴せん、晩餐を済ませばまた必ず仏前に跪座し唱名礼拝して寝に就くというように習慣づけられておりました。

道を行くにも、たとえ首なし地蔵でも路傍にあればその前を通る時には必ず草花を手向け礼拝して過ぐるのが例でありました。こんな風ですから、どうしても出家したいという志望が胸に絶えませんでした。

十七歳の春、父兄に請うて菩提寺へ参り弟子にしてもらいましたが、いよいよ翌年の春、4月8日に得度式を受け出家の一分となった時の嬉しさ、その時の意識状態は何とも形容する詞がありません。その夜、窃かに本堂へ参り仏前に静座して仏恩の有り難さに感泣しておりました。やがて深更に至り小用に参るべく庫裡の方へ下って参りますと師匠はその足音に感付き夜盗と誤られて、大なる棍棒をもって追いかけられた。自分であったことが解ったから一朝の笑草となって事は済んだがこんな滑稽を演じたこともある。

また、その年の秋一通の書を遺して自坊を出奔し、菅谷の不動尊へ参籠し、数日祈念を凝らしたこともあった。今からその当時のことを顧みますといかに求道の念に熱烈であったかということが思い知られます。

しかるにその後、二十三歳の春、初めて長野第三教校へ入学しました。学生にオールドマン、オールドマンと呼ばれていたことは今に記憶しています。在学四年、ついで小石川高等学院へ入学しましたが間もなく師匠に逝かれて退学し、師籍を継いで住職することになりました。私は学校生活に入ると同時に思想は一変し、幼年時代の信仰はいつしか忘失してしまって、徒に名誉欲にかられ、学者になりたいとか、高き位置を求めたいとかいう野心にのみ満たされていた。一度寺院に住職して以来というものは一層物質欲に眩惑されて、信仰心などは夢にも起こらなかった。ただただ桑園を開拓するとか、果樹を仕立てるとか、あるいは養鶏にかかる不応作のことのみに身心を労役しておって、なんら檀信徒を教化するという様な考えは毛頭持たなかった。しかるに大正二年八月、長岡市法蔵寺に教学講習会が開催されました。
講師は笹本文学士(笹本浄戒上人)。五日間の講習中、笹本講師の謙譲なる態度と熱誠なる信仰とに動かされて初めて幾分か慚愧の心も起こり反省心も萌してきた。その翌年より弁栄上人の謦咳に触れ爾来しばしば上人のご教化をうけて漸う疑いの雲も晴れ暗黒の裡より光明界に引き出される様な気分になってまいりました。

仏は我らのみおやなり。我らは仏の御子なれば光の中にありながら、暗きに迷うぞ悲しけれ。ああわれらは仏の子であった。仏はわれらの御親にて在した。それを今日まで知らずして、仏をあたかも他人の如く余所に見ておったばかりでなく、御親に背きて、わがまま勝手のことばかり働いていて御親を泣かせ申してきたことを思えば、何とも申し訳のない慚愧の至りである。

徳本上人の御歌にも

心から地獄も餓鬼も造るなり
尽十方は弥陀のふところ

と現にみおやの光明中に在りながら、みおやの温かき慈愛の懐に抱かれつつありながら、心暗くして信仰の眼から開けざるがため、貪欲の心を恣にしては餓鬼界を夢み、瞋恚に心を起こしては修羅道を演じ、愚痴の為には畜生界の苦を感じて不平を起こし、不満を抱き苦痛を嘗め煩悶を重ねつつ彷徨い来たりし浅ましさよ、眼が覚めて見れば恥ずかし寝小便。

これまで寺に住職していたのは何が為であっただろう。耕さずして食らい、織らずして着る、皆これ仏祖の余恩にあらずや。しかるを徒に仏物を汚し、信施を私し、敢えて利他の浄業を修せんともせず。思えば業果の程も恐ろしく、責めては業障懺悔のため諸国行脚の身となりて念仏修行を仕てみたいと思っていたが幸、本年春、弟子が宗教大学を卒業して帰ってから彼に寺を譲り天台笠に頭を隠し、股引脚絆の旅装にて寺を出たのは当年四月二十六日、当国一の宮弥彦神社へ参拝し、次いで佐渡島を一周し新潟へ帰航し善導寺へ参りしに、おりしも弁栄上人御法話中であった。

(つづく)

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