光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.29 乳房のひととせ 上巻 聖者ご法話聞き書き(授戒会の説教) 1

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

心田地は法身より受けたもので、因果の理によって出来る。この心田地に、悪い種を蒔かぬように、仏戒を受けるのである。五戒即ち仁、義、礼、知、信を守れば、人間に生まれ、十善戒即ち不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見を守れば天上界に生まれる。四諦、十二因縁を悟れば声聞、縁覚となる。今は仏道の幹である菩薩戒を説く。他は枝である。

法身は一切万物の産みにて、報身は信仰により心霊を育て給う育てのみ親である。又、応身は吾等に成仏の道を説き給う教えのみ親である。法身より受けた心を完全円満に育て給うのが報身仏にて、この理を応身仏なるお釈迦様が我等に教えて下さったのである。

今から菩薩戒を授ける。仏に成る種蒔きをするのである。

一、一切の罪を造らず。(摂律儀戒)
二、一切の善をなす。 (摂善法戒)
三、一切衆生を利益す。(饒益有情戒)

この三つを菩薩戒という。一つにまとめたのを一乗仏性戒という。結果は同じであるが、信ずると、守るとの二つの方面から菩薩になる。戒を受けるのは、念仏の徳を完うする為である。受けた戒は、皆守る事ができないけれども、できるだけ守ればよい。戒を一度保てば、一度だけの利益がある。

戒を受ける時、心を清らかにせよ。然らずば、消えやすい。菩薩戒を金剛法戒ともいう。この戒は完全円満なる仏となる事、即ち物の中で最も貴いダイヤモンドに成る戒である事を意味する。

戒を授ける人を伝灯師という。人の心のロウソクに信仰の火をつける役である。火がつけば、発得したのである。戒を全部受け入れ、力に応じて、一部分ずつでも、勤めて実行する事を全受分持という。

人の心に、三種の業障あり。その中で、黒障というは、如来の光明中に在りながら、その光明が少しも見えない心の汚れである。次に黄障は、師友知識の導きにより、信仰に入り、前途に光明を認めたる状態である。白障とは信仰が進み、三垢消滅、心意柔軟の光益を蒙り、障子を距てて月を見る如き障りをいう。これらの障りを除くためには一心に懺悔せねばならぬ。懺悔に上品、中品、下品の三通りがある。上品の懺悔は、血の涙を流し、全身八万四千の毛孔から血を流して懺悔すること。中品の懺悔は、血の涙を流し、全身から汗を流して懺悔すること。下品の懺悔は、全身より汗を流して懺悔する事である。これらの懺悔により、業障は次第に薄らぐのである。

世尊は一切の心ある者に、この戒を受けよと仰せられた。三聚浄戒は、信仰の方面より見れば、南無阿弥陀仏である。聖武天皇は御頭を丸められて「自分は帝位に在れど、天の親様に撰ばれて、如来の使命を務められるようになったのは、この上もない幸福である」とお悦び遊ばされたという事である。わが国では、昔から天子様で僧になられた方は三十八人あらせられる。皇族で僧になられた方は四百人余りおありになる。

一切衆生は悉く仏性を持っている。吾等は、もともと仏の子であるが、卵のようである。卵をそのまま捨てておいてはひなどりとならぬ。人間は肉にばかり生きていては、生死の夢から醒める事ができない。この戒を受けて、仏に成る種蒔きをせねばならぬ。

一切の罪悪は、大御親から受けたものを正しく使わないから起こる。凡夫はみ親の心を知らず、心が暗い。それで、あやまちをする。戒を受けると、正しい道がわかって来る。一休和尚が詠んだという歌に

やみの夜に鳴かぬ烏の声きけば
生まれぬさきの父ぞ恋しき

というのがある。烏とは経文の黒い字の事、生まれぬさきの父とは、阿弥陀様の事である。歌の心は、お経を読んで、お浄土の事を思えば、阿弥陀様は恋しいというのである。

  • 更新履歴

  •