光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.41 乳房のひととせ 上巻 三月別時(講話の筆記) 1

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その四(三月別時講話の筆記)

初日 別時念仏の用心

心を専らにして、真直に目的に向かって進め。心の置処を宗という。念仏三昧、見仏三昧の成就をめざして別時をつとめよ。三昧とは直調といって、一心に仏を念ずる事である。雑念を起すまいとすれば、益々起こるものであるが、それに捕われぬようにせよ。雑念が起ったと気付けば、すぐ振り捨てて念仏せよ。そのうちに、如来から引き出される。初めは、肉眼で、まことの仏が拝まれぬから、画像を掲げて、如来様を思い上げるのである。

人の心は、見れば眼の方へ、聞けば耳の方へ動く。五つの猿が五官の窓へ顔を出す。三昧に馴れない人の心は動き易い。

宇宙最尊第一の活きた如来様を一心に念じ、心を傾けて、ほとけ念いの心になり切るのである。そして弱き我、めくらの我を、あなたの御力に照らして、お育て下されと身も心も投げ出して、お頼みするのである。

初め信仰の起らぬ間は、仏様が活きて在す様に感じない。よく気をつけて念仏申しても、じき妄念が起って来る。けれども妄念が起こる度に、根気よく振り捨てて、仏おもいの心を起していれば、だんだん妄念が薄らぎ、奥の心が現れて来る。太陽の光よりも強い光明を見る。その光に因って心は清められる。折角人間に生まれても、仏心が生まれなければ、真の自覚とならぬ。覚らぬ前の善悪は、共に悪である。何となれば、如来の光明に育てられて、永遠に活かされぬ者は、六道生死の夢を見ているのである。夢の中の善悪は、ねうちが無い。善という名が付いていても、人天の心から出た善には、永遠の価値が無いからである。

誰でも仏性を持っているが、どんなに良い卵でも、温めなければ孵らぬように、信仰の卵も、念仏によって温めなければならぬ。平生申す念仏に因ってでも、信仰の卵はかえるけれども、それではおそい。はやく生まれ変るように、別時を勤めるのである。私共の心に信仰の火をつけるのが別時念仏である。一度火のついた信仰のロウソクは、肉の有る間、一生この世で燃え続ける。心に燃え付いた信仰の火は永久に消えない。信仰の火の燃えつかぬ心は動物生活に終る。

ロウソクに火をつけるのは易いけれども、人の心に信仰の火をつけるのは、むづかしい。人間には業障という障りが有って、信仰の火のつき易い人と、つきにくい人とある。別時念仏によって、人の心に信仰の火が燃えつくが、初めに火は、あちらにある。火がつけば、こちらの物となって燃える。

安心の三要件

  1. 所帰 信仰の本尊。絶対に阿弥陀仏に帰命せよ。如来の実在を信ぜよ。如来を大慈父なりと信じ、己を仏子なりと信ぜよ。
  2. 所求 信仰の目的。無量光明土に生まれたいと願え。現身に有余涅槃に入らんと念ぜよ。即ち現在は精神的に光明生活をなし、命終(寿終)の後は無余涅槃に入る。
  3. 去行 信者の務め。念仏して常に仏と離れぬようにせよ。念仏すれば、如来と離れない。去行とは如来の光明に摂化せられる行である。

往生即ち霊性開発の妙行は、去行である。これにより精神が霊的生活の養分を与えられる。霊的行為の原動力は念仏より出る。現在の厭うべき方面より、好ましい方へ移り替るのが去行である。

以上の三要件備われば信仰ができたといってよい。宗教には階級あって、最も低きは肉体の安楽を願うものである。即ち家内安全、五穀成就などを神に祈る。次に、現世はしばらくであるから、永遠に未来の安楽を願うべきであるという未来主義。最後に、現在より永遠に如来の大光明中に育てられ、終には智悲円満の仏陀たらんと志す光明主義。これが最も高き宗教である。

永遠の生命と常恒の平和はすべての人の求むべきものである。お釈迦様も、これを求められた。釈尊は、形の上では、この目的が達せられない事を知り、自ら山に入り、六年苦行して身心を練り、三昧に入って遂に目的を成就し、光明土を発見なされた。即ち常住の平和を得、心の夜が明け、心霊界が現れた。

お釈迦様ほど老病死を厭われた方は少なかろう。多くの人は、それを厭いながら、この世の生活を貪っている。お釈迦様は、肉眼を以て生死界を見、吾々と同じ世界に生活しておられたが、醒めた心の眼では、涅槃界を見、心は浄土に住んでおられたのである。かかる醒めた人達には、肉体の死と共に、今まで心に感じていた霊界が現実となるのである。

無量光明土に生まれるという事は、次の三つが現れた生活に入る事である。

  1. 永遠の生命と常恒の平和。
  2. 円満なる人格。
  3. 一切衆生と共に、普遍的安寧を得る事。

自分だけ極楽に生まれようとするのは良くない。成仏を願え。仏は一切衆生を救うのが目的である。信仰の進むにつれて、形の幸福よりも心の方に、広大なるねうちの有る事が解って来る。

太陽には昨日今日の別なく、去年と今年も無い。昨日今日は地球に住む人が勝手にいう事である。それと等しく、如来の方には、過去も未来も無い。生死の夢を見ている人間に、時の距てがある。

太陽により動物的の吾々は養われる。もし馬に自由を与えるならば、人間の用を足さぬ。田を荒し、人を傷つけるであろう。馬には乗手が入用である。このたび私共が念仏三昧によって、心が活かされ、仏心という乗手を得、ねうちのある働きができる動物として頂くのである。太陽を離れてはこの肉体が生きられぬように、心は如来を離れては永遠の生命を保つ事ができない。念仏して、如来を離れぬようにせよ。

〈つづく〉

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