乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その四(三月別時講話の筆記) 〈つづき〉
第七日 第十八願の続き
欲生。如来を深く信ずる故に、信仰は高まり、親子の情が、いよいよ濃くなり、信仰の内容が充実する。信仰の花開けば霊感あり。実を結んで体現となる。即ち完全なる人格となる。
宗教の終局目的は、人格の完成即ち成仏である。熟せぬ種を蒔いても芽生えぬように、善も悪も心の底から出たものでなければ、実を結ばぬ。地獄におちぬ。それは子供の放火の如きものである。また、花が散ったばかりの実を蒔いても生えぬ。
人には我欲を目的とする地獄格あり。仏に成りたいと願う霊格もある。人は欲望に従って動き、次第に向上する。
極楽とは、真善美のみ国である。この三徳の完成せるを仏という。柿の実の熟せるものは、外形美しく、その味もよい。その中の種を蒔けば生える。未熟の柿は色青く味わいも良くない。未熟の柿は枝に執着して風雨に抗し、容易に落ちない。信仰もまた、初めには煩悩の渋あれど、名号を執持せば、やがて心ひろく、体ゆたかに、円満なる人格となり、接する人をして欣慕せしむるに至る。
聞き書き その五(三月別時の夜のお話) 無量光
法身、ビルシャナは絶対人格である。宇宙を人格的に見たのである。ヤソ〈キリスト〉の神とビルシャナとはちがう。ヤソの神は、人間や万物を造る大工のような神である。天の一方にあると見ている。ビルシャナは、宇宙全体を人格的に見た仏である。
万物はビルシャナの一切智と一切能とによって産み出されたものである。お釈迦様でも、草一本造る事ができない。万物はビルシャナという大み親によって生み出されたものである。
真言宗の本尊は大日如来といって、このビルシャナ仏を本尊としている。金剛界(父、智)と胎蔵界(母、理)との二部を立てる。
哲学は知識の対象にて、宇宙の真理を知りたいという知的欲望から生まれたものである。
宗教では吾等の救主を研究の対象として取扱うは、おそれおおい。本尊を彼是いうは謙遜の徳を破る事になる。けれども本尊を研究したい。そこで名を変えて、宇宙を一つの理体と考え、真如と如づけて研究する。かくなれば、宗教でなくして哲学となる。宇宙万物の根源は真如なりというは、学問的見方である。
法然上人は凡夫でない。如来の代表者である。けれども役場の戸籍上では普通の人である。これは宗教上より見た時と、学問上より見た時との違いである。
科学は宇宙を一つの機械と見る。誰が造ったかというに、自然則で運転し、そして元からある機械だと見ている。宗教はこの同じ宇宙を、そうは見ないで、尊き法身ビルシャナ如来であると見る。
法身は宇宙自然の妙法体。宇宙全体をビルシャナ仏即ち大日如来という。これは一切万物の大御親である。吾等の身も心も、法身の別れである。身とは全体の事。指一本を身といわぬ。法身は宇宙全体を指す。
報身は精神界にあって、一切の心ある者を摂化し給う尊い客体である。法身は無始無終。本覚とは元からある仏。始覚とは初めて悟った仏である。
法身に色々の名がある。自然界と心霊界。生死界と涅槃界、娑婆と極楽。穢土と浄土などである。われらは肉眼で法身の一部分を見ている。経文の文字の解釈が解っただけでは、その心が読めたといわれぬ。宇宙全体が活きた経文である。それを仏眼で見たままを書いたのが文字の経文である。
浄土の荘厳を見たくば、阿難よ、西に向かい、心を浄くして南無阿弥陀仏と称えよと。阿難は仰せのままに西方を見れば、仏の神力によって、すべての景色は忽ち変り、光明輝く浄土が現れた。丁度、夜が明けたように妙色荘厳の浄土が見えた。その夜明けの有様を写しためが、浄土の経文である。誰にでも、心の夜が明けると、浄土が見える。これを実相般若という。阿難がお釈迦様の説かれたみ教えを記憶して、それを文学に表したものが文字般若である。文学に写したものよりも、実際のものの方がほんとうである。心眼開けると、宇宙の実相が見える。文学般若は、まだ心眼の開けない人のために、書き残された経文である。始に経文で道案内をして貰い、後には活きた経文を見るのである。法眼開けると浄土が見える。
如来に本仏と迹仏とある。学問では、本仏を本覚という。その中に法、報、応の三身あり。本仏は本有無作である。生死界の者には解らない。『首楞厳経』に、本仏の三身、迹仏の三身が説かれてある。如来は大智慧であって、宇宙全体を御身とする霊体である。
人間に生まれると人間界の事がわかる。すべての生物はそれ相当の境界に生かされている。吾々も如来の境界に生まれると仏心がわかる。如来は智慧であり、同時に姿である。弥陀の身心は法界に遍満す。手を打てば音がする。音の体は空気である。手を打てば、形なきものが音となって耳に感ずる。手を打たねば、いつまでも音にならぬ。空気のある所で、手を打てば、どこででも音がする。その様に、念仏すれば、如来は真正面に現れ給う。けれどもある衆生には、仏の在す事が解らぬ。三昧の鍵を以て浄土の門を開け。
真宗では、南無阿弥陀仏の文字に功徳ありというが、そうではない。如来は現に、ここに在して、吾等がその御名を呼べば聞いて下さるから有難いのである。善導大師は「衆生、行を起して、口に仏を称すれば、仏これを聞き給い、乃至意に仏を念ずれば、仏これを知り給い、衆生、仏を憶念すれば、仏もまた、衆生を憶念し給う」といっておられる。絶対なる法界は、時間、空間に障りなし。その中に遍在する衆生は、時間、空間に縛られている。
世界は形なきもの(空)から次第に形づくられ、生物が住み、また終に空に返る。これを永久に繰り返すのである。各二十小劫の時間をへだてて、成住壊空の四つの変化を繰り返す。また、地上の生物は、生住異滅の四つの変化を繰り返す。これが自然界の姿である。
仏身と浄土観
宇宙を肉眼で見れば生死界であるが、仏眼を以て見ればルシャナ如来の蓮華蔵世界である。その中に如来まします。
〈つづく〉