乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その六 講演 大正9年3月7日午後 京都市田中大堰町の中井宅にてなされた弁栄上人の講話(つづき)
〈宗教の意義〉 本論〈つづき〉
夢に意識の夢と、阿頼耶の夢とあります。お釈迦様が成仏なされて過去を振り返って見るに、今までの生活は全く夢であった。世の人達は生死の夢を見ている。醒ましてやりたいが、説き聞かせても解るまい、と嘆かれ、涅槃に入らんとなされた。けれども、一切衆生に仏性あり、これを開発すれば如来と異ならぬと、それから、五十年間の説法となりました。私共の肉体は永生の物でありません。肉眼で見える様な極楽ならば、極楽もまた、永久的価値は有りません。
今は、理性教育の為に、二十年近くも費やすに、霊性開発の為に毎日一時間宛の修養もせずに、霊の有無を論じたとて、それらの言論に何等の権威もありません。霊性を開くには、理性教育の如く、事々物々について研究するに及びません。一定の法によれば、さ程長い時日を費やさずに、目的を達する事ができます。
ここも極楽であるが、肉眼や理性では見る事も知る事もできません。肉眼は文字の形を見るも、文学の意を見る事ができません。また、文学の意を知る理性が有りましても、霊性が開けませんと霊界を知る事ができず全く暗であります。
経文に実相般若(般若とは智慧なり)と文学般若とあります。宇宙は生きた大きな経典であります。これを実相般若といいます。これを文字で写したのが文学般若であります。植物を研究して、文に綴ったのが植物学の本であって、文字の集まりは実物でありません。書物によって実物を知る様に、経文の手引きに依って霊性が開けますと、極楽が見えます。三昧は極楽を開く鍵であります。霊性が開けますと、肉体を正しく支配します。ポールハウゼはいいました「人間に理性と動物性とあり、動物性が発達すれば、理性までが動物化する。道徳とは理性を育てて動物性を支配せしむる事である」と。人間は肉体という馬に乗った動物であります。道徳理性の乗手があって、肉体が有益なる働きをするのであります。更に高等なる霊性を用いますと、この身は一層尊い仕事をします。
生計とは肉体を生かすはかりごとであります。私共の生活を生理的に見れば、日々死に近づきつつ有りますから、実は死計といわねばなりません。仏教で活計とは、永遠の生命を得るはかりごとをいいます。この身は永生を得るために大切なものであります。
お釈迦様を両足尊と申したのは、理性と霊性との両足が円満に発達しておられたからであります。今、吾が国民の知識の片足は延びていますが、霊性の足は短く、びっこ〈片足を欠く〉であります。知識が進んでいるだけ悩み多く、時間的にも空間的にも、思う範囲が広くなり、心配も従って多いのであります。霊性が開けますと、道徳的に満足を得るのみならず、その他に於ても十分な満足が得られます。
私共は天性を発達させて肉体を丈夫にし、理性を育てて社会、国家に貢献し、霊性を開発して宇宙(如来)に対する務めを果さねばなりません。かくてこそ、人間としての生活を完うし、永遠の生命までも与えられるのであります。(以上)(これは当日の筆記に依って、修正した全文にて、加減せず。)
〈つづく〉