光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.63 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 7

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その九 別時中の法話〈つづき〉大正9年7月25~26日

(一)南無の二義〈二十五日のお話〉

如来に「南無」を要求するに、次の二義がある。
一、救我  我に最幸福を与え給え、即ち極楽に生れ、無量寿のいのちを与え給えの意である。
二、度我  我に最高徳を与え給え、即ち無量光を得しめよとの意である。

吾等は永遠に救って下さる大み親の在す事を知らずして、今までは六道輪廻を続けて来た。今は南無の祈りにより救われて、永遠の幸福を与えられるようになったのである。この世では相対的の幸福は得られるが、絶対的の幸福は如来に依らねば得られぬ。

如来に救われた上は、度我の望みを起すのである。

「度」とは印度語の「ハラミツ」であって、仏の腹中に入り、仏に成るまでの道行をいう。仏子の目的は成仏である。即ち最高徳を獲るのが目的である。カントは、この世では最高徳と最高福とを兼ね具える事ができないといっている。
孔子は一子に先立たれ、顔回という高弟に死なれた。而して常に貧しかった。
至善至幸は如来の光明に依って得られる。信仰の人は他から幸福でないように見えても、自分には無上の幸福を感ずるものである。
如来の救いを求むるには、南無と頼まねばならぬ。

(二)常楽我浄〈二十五日のお話〉

常とは永遠に変わらぬ意、即ち永遠の平和である。我とは自由自在の意である。我々は顛倒想を以て常に流転し、苦しんでいる。それを救って下さるのが如来である。説教を聞き、信心を起こし、精神が救われると、一分の常楽我浄を感ずる。真宗やキリスト教では救我に重きを置く。

如何にして救われた事を知るか。救われた時は、何ともいわれぬ有難さを感ずる。身は娑婆にあれど、心は無量寿の人となったからである。

我見なくば六道輪廻の罪を造らぬ。如来の光明により我見が除かれ、仏心に融け込めば、言葉で表現できぬ悦びを感じ、我を忘れてしまう。真宗は、ここに重きを置き、救われた自分を悦ぶ。報恩を忘れぬ。しかし救われる目的は何の為か。度我の為である。如来の光明に依って生れ更った人は仏子である。仏子は至善を願う。円満な人は立派な働きをする。現代人は幸福よりも至善を要求する。快楽を目的とせず、円満なる人格を目的とせねばならぬ。快楽を貪れば堕落して不幸となるのが世の常である。

如来は我等に最高徳と最幸福を与えんがために、我を頼めと仰せられる。

人生を自覚せずして、ただ生き永らえたいと思い、子孫の繁栄を願うは動物的人間である。人生を自覚せる人は菩薩である。菩薩とは法身より与えられ、性能を報身の光明に依って霊化されつつある者である。我等は本来、法身のみ親より仏性を与えられているが、生れたままに放置しては、その尊き働きが現れない。人生は、報身の光明を蒙り、仏性を立派に育てるところに価値がある。まことに重き責任ある人生である。

仏を満月とすれば、菩薩は新月より満月に至る道中である。それをハラミツ即ち「度」という。六度といい、六ハラミツがある。この六つの修行の道中を過ぎて、成仏の彼岸に到るのである。

救我は投帰没入とて、一切の我見を捨てて如来の大慈悲の中に己を投げ込み、没入する事に依って望みが達せられる。斯くなりて後の我は仏我である。如来の聖旨に依って動く我である。

度我において人生の真意義が顕われる。最幸福のみが人生の目的であるならば、救われた上は、一日も早く死んだ方が良い。なぜかといえば、この世は四苦八苦の世界であるからだ。けれども、度我のためには、この世は修行の設備が至れり尽せりの所なれば、生き永らえて修行せねばならぬ。『無量寿経』は度我に力を入れてある。

なぜ天から米や酒が降らないかと聞く人がある。もしその人の願い通りになるならば、人らしい人ができぬ。天から食べ物や衣服が降っても、真の幸福ではない。迷える物質的幸福は不幸である。我等の身心は鍛うべき鉄であり、研くべき金剛石である。ダイヤモンドは糠や灰では研かれぬように、霊性は倫理や道徳では研かれぬ。それは報身の光明によらねばならぬ。

念仏によって鍛えられた心を平生の行いに用いねばならぬ。娑婆とは勘忍土という事であって、念仏で鍛えた心を実験する所である。何処にも、天然の釈迦、自然の弥勒は無い。未成品を完成するのが精進の力である。

『無量寿経』の下巻に「この土に於ける一日一夜の修業は、極楽において百歳するに優る」とある。

人に念仏を勧めても受け付けられないのは、こちらの刀が錆びているからである。仏の智悲の刀は如何なる邪見の者をも切る。内力を貯えるために念仏三昧を修せねばならぬ。『大経』〈『無量寿経』〉に「極楽に生まれんと欲する者は、智慧明達にして功徳殊勝なれ」とある。これは法然上人の「愚鈍になりて念仏せよ」というのと同意である。念仏者を外より見れば愚鈍のようであるが、心は人間を超越して仏に属している。内面に力を入れる人は、外見は愚に見える。

〈つづく〉

  • 更新履歴

  •