乳房のひととせ 下巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉
(五)安居
○八月四日。今日から、いよいよ安居は始まった。
午前三時に起床。洗面後すぐ本堂で「あけの礼拝」と念仏三昧である。それが六時頃まで続く。朝食後は十二光仏の講義を毎朝拝聴する事になった。それから上人様は仏画をお描きになるのであった。
東京から千葉秀胤という仏画師の坊さんが来て、上人のお手伝いをした。我々も思い思いに絵具のべたぬりをさせて頂いた。
○近頃、上人のお弟子の仲間入りをした岩品さんも来て吾々と共に修行した。氏は今日、光明会の仏画師として信者の為に三昧仏を描くに多忙だそうであるが、当時は全くの素人で、これから習い初めようという処であった。
岩品さんは駿河の人で、しばらく前までは軍隊にいたそうで、頑健な体格と厳粛な規律の人であった。
毎夕食後には一同、本堂で「くれの礼拝」と念仏三昧を勤めた事は朝の通り。それから学園の教室(当時は庫裏の二階を使っていた)で「三身の聖歌」の講義を引き続いて拝聴した。かくの如くして一日の作業を終えて床に就くのは、いつも十二時頃であった。そして朝は三時に起こされるのであるからたまらない。しかるに岩品さんは夜中床に就かず、本堂でお念仏を申し、眠くなればその場で居眠りをする。しかも昼寝をせぬ。それ故、夜の聴講は直立不動の姿勢で机の側に立っていた。上人「岩品、何で立っているか」岩品「席に就けば睡魔に襲われますから」。
○徳永さんは本堂の裏堂で、ひそかに午睡したそうであるが、自分は公然と上人のお側で昼寝をした。上人が画を描かれるお室の次の間に煎餅蒲団が何十枚か積み重ねられてあった。その中で裕々と眠った。定めし高いびきをかいた事であろう。上人は「労れた時は一睡するが良い」と仰せられたから、自分は御免を蒙ったのである。そのお蔭で最後まで健康を保つ事ができた。京都からの他の三人は皆後に病った。
○上人「禅宗では食器を自分で始末する。我々も、そうしよう」と仰せられ、小さい桶に水を入れたのを持ち来たらせ、その中で各自、茶碗や箸を洗うように、順に廻し、洗ったものを名々に渡された布巾で拭い、それで包んでおくのである。如何にも簡易で人手を煩わさず結構であるが、きたなくて気持ちが悪い。それを自分は好まなかった。肺病や性病などの連中と何時こんな危い綱渡りをせねばならぬかも知れぬ。かかる不衛生なしきたりを残して置く事は、科学者として黙視できない事であるから、いつか機会を見て文句をいい、蒸汽消毒をするように警告しようと思っていた。
○十二日の事である。自分は、いくら念仏しても同じこと、妄念が起こり念仏が頼りなく思われて仕方がなかった。それで上人に己が意中を訴えた。すると上人は「文字を習うにも、そう早く印が見えるものでは無い」とのお目玉を頂戴した。
私共は毎日、日中は勝手に本堂や庫裏のお内仏の前で念仏をしたり、仏画の手伝いをしたり、或は森の中で黙想するのであった。
或日の午後、自分はお内仏の前で二時間ばかりお念仏をして二階へ上った時、上人は「今、お浄土へ往っていましたね」といわれた。勿論自分は「はい」とも「いえ」ともいわず、ほめられたのか、からかわれたのか、真実を教えられたのか、さっぱり解らなかった。また、京都で「中井さん、近頃は光顔巍々ですね」といわれた事がある。この時は、からかわれたと思った。上人の滅後、聖母籠島夫人に「上人様も人をからかいますね」といって右の事を申し上げた。夫人は即座に「上人様は決して人をからかいなさらぬ。その頃、あなたは光明主義に満足し、上人様を深く信頼して、何ものにも犯されない強い信念を持っておられたから、有りの儘をおっしゃったのでしょう」といわれた。
安居の始まった日、松井君は上人に「死後はどうなりますか」と尋ねた。そのお答えに「心霊界で法身の菩薩となり、次第に進んで成仏する。この土は修行の道場である」と教えて下さった。
〈つづく〉