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聖者の偉業

聖者の俤 No.73 乳房のひととせ 下巻 7 随行記・8 聞き書き 其の十

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉

(八) 涙の別れ

 吾等一行が別荘に着くや、勝手の知った人が、我々を仏間に案内してくれた。室の西側に立派な仏壇を構え、美しくお飾りをしてあった。仏前に一礼して座に着き、上人の御入来を待っていた。
 主人の和尚を従え、南の方から縁側を歩み、仏間へ入って来られた上人は、入口近くに、ピタッと坐られた。
 和尚は私の前に来て、右手を差し出し、指鉄砲の筒先をこちらに向け「そこのけ」といった。何事だと驚いてうしろを見れば、自分は知らずして床柱の前に坐っていた。西側の仏壇の方を上座と思い、南の方は入口であるから邪魔にならぬように、室の北側に坐を占めた。そこに小さな床の間ありしを気付かなかったのである。自分は赤面して東側に避けると、
上人「どこでも、偉い人のいる処は上座です。昔は京都に天子様がおられたが、今は東京へ行くのを上るといいます」と仰った。和尚は沈黙してしまった。
和尚「上人様。手前方では、今度一つ新しい温泉を堀りました。まだ全部出来上りませんが、上人様に入り初めをして頂こうと思い、お待ち申していました。どうぞ、こちらへ」。
 而して外の連中に向い「あなた方は、あちらの湯へ行って下さい」といった。自分も皆のあとについて、古い温泉へ行こうとした時、
上人「中井さん、一緒にはいりましょう」といって、まだ誰も入った事の無い新築の浴室で、上人様とただ二人、当麻以来の汗を流した。和尚は定めし、あの無作法者は一体何者だろうと思ったにちがいない。私は上人のお背を流しながら思った。この立派な御体格、八十までは大丈夫だ。自分は若いけれども、お先に失敬せねばなるまいと。しかるに、それから百日余りで上人は遷化遊ばされたのである。
 お湯から出た一同は、再び仏間でお茶を頂き、いよいよ上人様とお別れして正願寺へ帰る事となった。自分は上人の御前に両手をつき、頭を下げ「ながなが有難う御座いました」とお礼を申し上げたが、あとの言葉が出ない。頭が上らぬ。畳の上に涙が点々と落ちた。
 和尚はこの様を見て「あんなにお別れを惜しむのならば、今夜ここで一緒に泊めて上げては如何です」と上人へ申し上げた。上人様は何も仰らなかった。
 私は頭を下げたまま、うしろへ下った。泣きづらを見られるのが恥ずかしくて、お室を出てからも、頭を上げえず、縁板に滴る涙の痕に追われつつ引き下った。
 わが一生に、これほど感激した訣別はなかった。これからも恐らくあるまい。有難いやら悲しいやら、嬉しいやら、苦しいやら、いうにいわれぬ、味わい尽きぬ、涙の別れであった。かくて随行の一ヶ月は終った。
  この露の身は ここかしこ  
  しばしがほどは 別るとも  
  心は数珠の 緒を通し 
  同じさとりの 身とならむ 
     〈弁栄上人作詞「のりのいと」〉


8 聞き書き 其の十
当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義

無量寿

 阿弥陀仏の竪の徳―時間的―永劫存在
 如来の法体 二種法身
 一、本仏又は法性法身(法身仏、天仏)
 二、迹仏又は方便法身(現身仏、人仏)
 「体」とは全体にして内容、実質に充たされている。人でいうならば、身心の全体が体である。世間では、物質的の方面のみを体といって、心を含まぬ。
 「相」とは姿である。蜜柑の色、形、味わい等が蜜柑の相である。
 「用」とは作用の事である。
 宇宙全体は如来の体大である。「大」とは宇宙に?在して余す処なき意。
 法爾の理とは自然のきまりの事である。目が見えるのは法爾である。なぜ見えるかは、わからぬ。それは説明できない。
 体に質と量とある。唯物論者は宇宙を物質的に見る。彼等は精神作用をどう見ているか。物質が集まって動物ができ、色々と考えるのであって、死ねば元素に帰り、その働き(精神作用)は無くなると思っている。
 唯心論者は、心生ずれば万物生ず、と見る。現象の上に物質を認むれど、物質そのものは不可解である。物とは己が心を外に見たものだという。
 弥陀の法体の本質は物心無碍である。もし本質が精神のみならば物ができない。また物質のみならば心ができない。人間を外より見れば物質なれど、内より見れば全体が心である。
 宇宙の本体は大心霊体である。これを哲学では真如という。体あれば必ず相がある。相に、外に見える相と、内に感ずる相とがある。カント曰く「我等が樹を見る時、樹その物は何だが知れぬ。樹と見えるのは、我が心の彼方に現れたものである」と。
 我が心の体は、物を思うも思わぬもある。見聞は心の相である。

〈つづく〉

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