乳房のひととせ 下巻24
中井常次郎(弁常居士)著
◇8 聞き書き 其の十(つづき)
当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義
妙観察智
今は、これを述べない。(筆者が上人に「妙観察智が抜けました」と申し上げたのに対し、上の如く、お答えになった。御遷化後、聞いた事であるが、妙観察智は奥伝として、一般人に説かぬ方針であったそうである。)
無礙光
用大――処として融化せざるなし
如来の三徳――神聖、正義、恩寵
一切衆生を解脱霊化して、道徳的自由を得しむるのが無礙光である。無礙とは自由の意である。人は煩悩のために腹が立ち、貪り、苦しむ。如来の光明により、霊化されると、かかる煩いが無くなる。
加藤弘之先生曰く「我等は天則に縛られて、自由意志なし。短気な者は、天則により生まれつき短気であって、気長になれぬ」と。しかるに、多くの学者は、人に道徳的自由意志有りという。今は信仰に依り、霊化されると、自由を得るとする。
如来は一切衆生のために、道徳の標準として至善の霊界に在して我等を照鑑し給う。
道理が解るとも、実行できるとはいわれぬ。認識は無辺光に当たり、実行は無礙光に当たる。
道徳に善悪あれど一定の標準は無い。仏教でいう「道」には人道、天道、声聞道、菩薩道、仏道等ある。その道を行えば、めざすものになる。人道を行えばまた人間に生まれ、行いが天道にかなえば天上界に生まれる。
親の敵を討たずに捨て置くは人道でない。人道は恩に報いるには恩を以てし、怨に報いるには怨を以てする。しかるに、天道は怨に報いるに恩を以てする。即ち怨親平等の愛を以て他に接する。たとえ、怨親平等の善を行うとも、生死解脱の悟りなくば、声聞になれぬ。声聞道は煩悩を断じ、無漏の聖道を悟らねばならぬ。仏道は羅漢道よりも高遠な悟りである。
道徳と悟りの極は仏である、仏は衆生の是所、非所を知り給う。
如来の三徳に就いて
◆神聖――如来は如実の智慧を以て、道徳行為を照鑑し給う。仏と成る道は一定不変である。
正見は仏道を照らす智慧である。正見に依って行動せば千万人と雖も我ゆかんとの心が起こる。邪見は正見の反対である。釈迦の説法は、馬鹿者をたぶらかすものだと言う如きは邪見である。邪見の人を恐れよ。正見の人と交れば安全である。「見」は大事である。見込みを誤れば破道に入る。
◆正義――正見の命令に依って為す行いは正義である。
正見は眼にして、正義は足である。正善を取り、邪悪を捨てるのが正義である。
主観的に正しき事は、客観的に善である。
正義は八聖道(正見、正思惟、正語、正業、正精進、正命、正念、正定)の実行となる。正見とは如来の神聖なる御心に叶う思いである。人の知ると知らざるとに拘わらず、如来の御心に叶うや否や、仏に成れるや否や、から割り出す考えを正思性という。正語は仏道に叶うや否やから出る言葉であって、如来の御心に叶わぬ事はいわぬ。如何に巧にうそをいうとも捨てられる。正業は御心に叶う行為である。正精進は御心を勇猛に行う事。正命。命に身と心との両面あり。盗んだ物を食べても、身を養うに差支えなく、味わいに変わりが無い。けれども、正見の人は不正な生命を好まぬ。「渇しても盗泉の水を飲まず」という事がある。心の生命は、如来の慈悲を離れては保たれず、霊的にやせる。正念。念と思いの別。思いとは考える事。念とは、仏が我が心に入り込んで忘れられず、何となく慕われる事である。念は忘れられぬ事であって、考える事ではない。正定とは念が固定して動かず、道徳心が不変となった状態である。これらは皆、正見より出る正義である。
神聖、正義によらねば成仏できない。神聖、正義を父の徳とすれば、恩寵は母の徳である。
◆恩寵――人の子は先ず母に育てられ、後、父に導かれるように、信仰の初めは、如来の恩寵により、心が霊化され、後、八聖道の足が立つようになる。如来恩寵の光明を蒙り、心眼が開けると、己が心のあさましき姿が見えて来る故に、悪い事が次第にできなくなる。道徳の脚が立つようになれば、神聖、正義の道を歩む事ができる。
念仏すれば、心に内容ができるから、霊徳が自然に現れて来る。不必要な弱点が少なくなる。動物性が抜けて来る。正しき心が強くなれば、悪い事ができなくなる。
かくの如きは無礙光の働きである。
(凡夫心) (如来の光明により)
汚(感覚)――浄化される
悩(感情)――融化される
闇(知力)――智見開かる
罪(意志)――霊化される
無対光
無対光は仏道の帰趣即ち終局を示す。仏と衆生とには反対性があるけれども、衆生が如来の光明によって、次第に霊化された終局には、本始不二の状態となる。
衆生は相対有限にて、仏は絶対無限である。
十二光のうち無量光、無辺光、無礙光は宇宙論である。
吾々の心が四大智慧と合一するには、無礙光の実行によらねばならぬ。
宗教心理の二面として人の心に開発と霊化の二作用がある。
〈つづく〉