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聖者の偉業

聖者の俤 No.82 乳房のひととせ 下巻31 聞き書き 其の十

乳房のひととせ 下巻30

中井常次郎(弁常居士)著

◇8 聞き書き 其の十(つづき)

当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義
 往生の正因は念仏である。これを養うに三心、四修、五正行あり。三心とは、心田地を良くすること。信、愛(楽)、欲。これは強き身体に当る。四修は食物即ち信仰を育てる栄養分である。

至心(真実心)

 信――知力
 愛――感情
 欲――意志
 至心は心の備えであって、消極と積極との二面あり。まことに信ずれば、如来を愛慕せざるを得ぬ。孔子曰く「衷心(ちゅうしん)、これを嘉(よみ)すれば、何れの日か忘れん」と。
 法然上人のお歌に

われはただ仏にいつかあほひくさ
 心のつまにかけぬ日ぞなき

 孔子また曰く「賢を賢として、色にかえよ」と。如来を愛すれば、その徳に霊化される。けれども、初めは、如来の威徳を知らぬ。
 人格卑しきは、感情下劣なるによる。つまらぬものを愛するは、人格卑き故である。
 一休和尚は後小町天皇のお一人子である。母君は南朝の出。楠氏も新田氏も亡びて、足利氏が北朝を立てたが為、一休の母、ほとけ御前は、北朝の光明天皇を弑し奉らんとした。それが知れて死刑に処せられんとしたが、一休さんを胎内に宿していたから赦された。それで一休さんは出家したのである。修業に大層熱心であった。

本来の面目棒が立姿
 一目見るより恋とこそなれ
われのみか釈迦も達磨も阿羅漢も
 この君ゆえに身をやつしけり

これは一休さんの歌だといわれている。
欲生―極楽に生まれたい、如来を我がものにしたいとの心である。
 極楽に生まれる資格を作る為の至誠心は、単にうそをいわぬ。天真爛漫という消極的のものでは駄目である。誠は形式なり、心の容器なり。真実心は中実(なかみ)を入れる容器である。容器が大きく、強くとも、内容が貧弱では価値がない。信、愛、欲は信仰の内容である。信仰は水の如く、衆生の信水澄む時は、如来の月影が宿る。信仰なき人の心に如来の光明は感ぜぬ。
 馬に向かって「天の恵みを感謝せよ」というも、馬は返事をせぬ。馬が偉いから答えぬのではない。つまらぬ心だから答えられぬのである。天地間に拝みたいような人は無いという人は、牛馬に似ている。目に見える物の中で、最も偉大なものは太陽である。
 金剛の心ができると、如来が有難くなる。信仰は念仏によって起こり、信仰によって如来の光明を受ける。信心は倫理や道徳では研かれない。 
趙氏連城の珠―卞和(べんか)という人は立派な玉材を見出した。玉屋が「それは名玉では有りませぬ」といった。王は怒って、卞和の右脚を断った。それで二番目の王様に、その玉を献げた。また左脚を断たれた。人々は、卞和に「これからは、決して玉を王様に献げるな」と忠告した。彼は名玉を知る人なきを嘆いたが、第三の王なる趙の恵王は、玉の真価を知って、それを獲た。秦の昭王が十五の城とその玉とを取り替えようと申し出たという話。
 この珠のように、尊き方がいても、信仰の目なき者にはわからない。

五正行―これは喚起、開発、体現の三位に通ず。
読誦正行。文字を見てよむを「読」といい、暗記して称うるを「誦」という。
礼拝正行。礼拝により心霊を育てる事。
観察正行。瞑想して仏や浄土を憶念する事。心の鏡が研かれて仏心が映るようになる。
称名正行。これが最も大事である。
讃嘆供養正行。

無称光 開発位

 加行位より見道位へ。四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)を聞きて信仰に入り、五根、五力と進み、開発位、体現位と進む。

四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)
恭敬修―宗教は本尊に対して無上の尊敬を献げ、身命を打ち任せて救いを求めねばならぬ。今、自分は心霊界の事に就いては、全く盲目で、聾唖(ろうあ)で、愚鈍であり、何の価値もなき者なる事を知らねばならぬ。如来のお救いなくば、吾等は滅びる外ない。しかるに如来の在す事を知らぬ愚者である。今は、在さざる処なしという如来の相好を見る事も、御声を聞く事もできぬ者である。されば「己を見る事、死猫の如くせよ」と教えられている。恭敬修なくては、宗教は成り立たぬ。
 釈尊は提婆達多(だいばだった)の悪計を恐れず、悲しまず、平然たりしは、人には知れざりしも、世尊は提婆の事をよく知っておられたからである。提婆は前世で釈尊の師匠であった。そして今、仏の偉大さを証明するために、この世に現れて色々と迫害しているのである。この事が、『法華経』を説く時に至り、初めて一般に知れたのである。
無余修―信仰は一心でなければならぬ。雑多な思いを起こしては駄目である。
 多神教は幼稚な宗教であって、如来の影を拝む宗教である。唯一の神は如来である。一切諸仏、菩薩は如来の分身である。
 余仏余神を雑えず、純一に弥陀一仏に救いを求めるのが無余修である。

〈つづく〉

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