光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.88 乳房のひととせ 下巻37 聞き書き 其の十一

乳房のひととせ 下巻37

中井常次郎(弁常居士)著

◇九 聞き書き 其の十一(つづき)

大正九年八月十八日~二十四日信州唐沢山阿弥陀寺別時説教

 至心不断に念仏を相続すれば、まのあたり如来に対面できなくとも、罪障は次第に薄らぎ心は練れてくる。見える、見えぬは如来の方にある事なれば、対面の早晩に気をもまず、一心に如来を愛慕せよ。美しい感情が発達してくる。恵心僧都の歌に

ぬれは夢さむればうつつつかの間も忘れ難きは弥陀のおもかげ

(六) 第十八願の要は信と行

 信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。欲生とは光明中に活きんとの心。向上的生活を希う心、如来は衆生の為に神聖、正義、恩寵の光明を放ち無量荘厳の浄土を構えてお待ち下されてある。小さき虫や魚でさえ生きたい、生きたいと、生きるに役立つ食物は何でも口に入れる。それと共に、他から食われまいとする。人は精神的に虫や魚よりも進んでいるから、順境にある間は生きたいと思っているけれども、逆境に入れば死にたくなる。人間でも理性の進まぬ者は動物に近い。知識が進めば不平不満が多くなる。現在に不平不満を抱き、遠きを恐れ、取越し苦労して自殺する。信仰に活きた人は形に捕われず、広い天地に活きているから、常に希望に満ち、幸福が身にあふれている。
 欲生の念仏は力を与う。これに願作仏心と願度衆生心の二つある。
 仏の金色なるは黄金の如く完全円満なる人格を示す。人から何と悪口されても怒らず、犯されない事は、黄金の錆びず、腐らぬようである。しかるに我等の心は鉄の如く錆び易い。世尊は如何なる場合にも麗しきを変えられなかった。
 一日の大事は食にあり、一年の大事は衣にあり、一生の大事は住にあり、永遠の大事は信仰にある。経に「六道の衆生は貧愚にして福分なし」と。わが持ち物と思える物は、皆借物である事を知らぬ。禅宗では、凡夫の事を守屍鬼という。
 赤子は母の懐が住家である。信者は如来の慈悲の懐に心を住ませている。ここも如来の大光明中である。苦は無い。信者の大きな心は、小さい娑婆や地球世界に閉じ込まれていない。肉眼を以て見れば、娑婆であるが、瞑目すれば絶対無限の光明中である。美を尽し、妙を極めた浄土の生活である。即ち心は光明中にあって、身は娑婆の仕事をしている。
 心の衣――生まれたばかりの心は汚れている。信仰に入り煩悩の汚れを洗わねばならぬ。袈裟を懺悔衣という。裸体では見憎い。それで袈裟を着る。而して心の上に懺悔の衣を着て常に自分を反省する。如来の大恩を知らず、感謝の念なきを懺悔する。慈悲、忍辱の衣を着ていると腹が立たぬ。「菩薩には一定した師匠は無い。わが欠点を見て謗る人を師匠と思え」という教えがある。ほめる人に耳を貸してはならぬ。「もし悪人有って、わが肉をそぎ、骨を砕くとも甘露を飲む如く悦べ」と教えてある。
 村上天皇の皇子であるという空也上人は、師なくして僧となり、常に金色の仏様の教えを受けたという事である。上人が或日、四条大橋を通られた時、人の痰が顔にかかった。三、四丁ばかり知らぬ振りして過ぎた時、弟子がそれを見て「お師匠様、お顔にきたないものが着いていますが、御存知ありませぬか」と申し上げた。
 上人「知っているけれども、もし直ぐそれを拭えば、あの男は気の毒に思うであろう、今、拭うてもよい」といって拭われたそうである。

第十八願の心
吾等を完全な人にしてやりたい、精神的に親子としてやりたい、というのが第十八願の心である。
 如来を吾等がみ親なりと信ずれば、愛情が起り、仏心に同化される。経に「仏心とは大慈悲なり」とある。これは信心の花である。心華開きて仏を見る。しかる後、意志的信仰となり、聖なる行為が現れ、信仰の実が結ぶ。
 人の心は異熟性のものである。生まれた時は、さほど違わぬけれども、善悪何れにも染まり易き故、心の持ち方により后には大差を生ずる。
 善悪の両方において、愛と欲とに執着心が起こる。念仏により如来と共ならば、地獄も厭わぬという執心が起こる。『阿弥陀経』に「執持名号」とあるは、阿弥陀仏のみ名を称えて仏を離れぬ事をいうのである。
 心の食物――信仰の家庭において、幼き児等が朝夕仏を礼拝するは、人が生まれる前に母の胎内で養われるに似ている。念仏に味わいを覚えぬけれども、それにより信仰心が生まれて来る。信仰が進めば法喜禅悦の妙味を感ずるようになる。
 如来は心霊界の太陽にして、人格的に無量無辺の光明を以て念仏の衆生を育て給う。
至心に如来を信ず
真心は完全なる容器である。容器に欠くる処あらば、内容を保つ事ができない。至心は容器にして、信と愛と欲とは内容である。己を空しくして如来にお任せするから、如来のみ心をソックリ受ける。月影が水に映る如く、如来のみ心が信心の水に映る。如来は我等を愛し給う故に、我等もまた如来を愛す。如来を愛するが故に融化され、心の内容が充実し、美化される。信心の華開いて仏を見、寝ても醒めても仏を離れず、願作仏心やむ事が無い。種が十分熟すれば、芽生える性を具えるように、信心が熟すれば往生の資格ができ、悦びの中に力強く生活ができる。

(つづく)

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