布教研修会に参加して
亀山 政臣
近畿支部の教学布教研修会が10月26日、京都・龍岸寺で開かれました。講師は藤本浄彦先生(仏教大学副学長)、講題は「『宗祖の皮髄』を読む」でした。
光明会において由緒ある龍岸寺様にて、弁栄上人の現代的とらえ方を三席に渡り、心に染み入るお話を拝聴いたしました。
まず問題提起として、弁栄上人の教えと存在を今改めて捉え直す必要があると。なぜなら教えとは人を通して具体的に伝わっていくものであるから、釈尊、善導大師、法然上人、弁栄上人が先師をどう捉えていたか、温故知新が私たちにとって必要なことであると。
現代では心の内や宗教体験を表す“表現言語”を、事実や科学を表す“記述言語”で理解しようとするところに矛盾が生じている。例えば、「三学の器ものに非ず」といわれた法然上人が三昧発得されたというのは字面で捉えれば矛盾である。しかし、法然上人や弁栄上人の宗教体験から来るお言葉は、そのままを、お念仏を通して味わうことが大事だとわかりました。
そのことを弁栄上人の法然上人に対する態度と宗教観から説いてくださいました。弁栄上人の時代を含めて現代は「生きること」中心の文化です。後生往生も理解しながらも、法然上人が三昧発得されたことに注目し、弁栄上人は生の文化の世で生きるための教えを説かれ、そのお蔭で宗祖の教えに奥行きが出たと捉えることが出来ました。まして、「礼拝儀」は浄土三部経に基づき「宗祖の皮髄」は二祖弁長上人の別時念仏、三昧発得、見仏三昧などの実践に基づいて説かれたもので、弁栄上人は念仏者法然上人に習って、念仏されました。それはまるで「ああなりたい」というあこがれであったという理解は、念仏を受け継いでいく我々にとって大事なことだとわかりました。
そもそも、法然上人は「念仏を先とす」といわれているように、三昧発得を目的にされたわけではなく、往生浄土の業の過程で三昧を発得された。しかし、それは機根によるもので、我々にとって大事なことは「~のために」と念仏するのではなく、称名念仏の中に往生が決定し、三昧が深まってくるものが求められているのでではないか。その意味では、弁栄上人の教えや書物には臨場感があり、この研修会を通してその臨場感を自分のものとして深めていくことがこれからの課題だと受け取りました。
今後も先生のお話が定期的に拝聴できることを望みつつ、ご本尊様に感謝しながらお寺を後にしました。
専称寺住職