光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

行者発熱の文 3 霊的気分


 春来れば暖温なる和気が徐ろに到り新緑萌発し、また蕾の芽生して花開くが如く、如来の光明は眼には見えねども、ただ如来は実に在すことを信じて、一心に念仏して至心不断なれば、漸々に光明に触るることを得。然る時は自然に自己心中に発現し来る霊的気分は、春の気候に萌発する芽生の如くに、一種云うべからざる霊的気分、有り難いと云わんか歓喜と云わんか、この喚起し来る心を信心喚起と云う。故に経に其衆生ありてこの光に遇う者は三垢消滅し身意柔軟に歓喜踊躍して善心生ずとは、この如来の光明に触るるときは人の心が一転して霊性の生れ来る心理状態を説き給いしに外ならず。
 古人が、
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風のおとにぞ驚かれぬる
と詠し如く、如来の光明は眼には見えねども、ただ如来の大悲を憶念して一心に念仏して心々相続至心不断なる時は、天地に漲ぎる如来の霊的光明は、自己の奥底に伏する心霊に一種の霊的気分が響きて、秋風の寂寥を感ぜし如くに実感し来るのである。


現代語訳

春が来ると、温暖で和やかな気配がゆるやかに訪れ、新緑が萌発し、また蕾が芽生え、花が咲きます。〔その春の気配を及ぼす太陽の〕ような如来様の光明は、眼には見えません。しかし、ただ如来様は今ここに在すと信じ、至心に絶え間なく、誠実な思いで一心に南無阿弥陀佛とお念仏を称えるならば、徐々にその光明に触れることができるのです。
 その時、自然と自己の心の中に霊的な気分が現れてきます。それは春の気候によって萌発する〔植物の〕芽生えのように、心に現れてくるのです。その心境は、言葉では言い表すことができない霊的な気分であり、ありがたいと言うべきでしょうか、また歓喜というべきでしょうか。このような心境を「信心喚起」と言うのです。
 『無量寿経』に、「苦悩する衆生が、如来様の光明に触れると、その者の貪り・瞋り・痴の煩悩は消滅し、身と意が柔軟となり、躍りあがるほどの歓喜と善心が生じるのです」と説かれています。それは如来の光明に触れたとき、人の心が一転し、〔如来様と感応する〕霊性が生れ出てくる心理状態をお説き下さっていることに外なりません。
 古人〔=平安初期の歌人である藤原敏行〕が、
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風のおとにぞ驚かれぬる
と歌っているように、如来様の光明は眼には見えなくとも、ただ如来様の大悲を憶念して、一心に相続し、至心に絶え間なくお念仏を勤めるときは、天地に漲ぎる如来様の霊的光明によって、自己の奥底にある心霊に、一種の霊的気分が響いてくるのです。それは秋風が〔心に〕もの悲しさを感じさせるのと同じように、実感してくるのです。

解説

 信仰の喜びは実践してみないと分かりません。しかし、未経験者であっても、喜びをイメージできるように、春と秋の雰囲気に例えて語りかけています。
 信心の発露とその心境(霊的気分)を、春の芽生え、そして、春の清浄(新鮮さ)と、楽しく咲き誇る花で例えています。
 そして、その信心の発露は、日々南無阿弥陀佛と称えていると、目には見えないけれども、どこからともなく、不思議と心の中に感じられてきます。それを、また、秋風のもの悲しさに例えています。

出典

山崎弁栄上人『清浄光歓喜光智慧光不断光』三頁

掲載

機関誌ひかり第701号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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