光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

行者発熱の文 5 死別の善知識


 御小児さま、はかなくならせられしとの御事、傷ましきかぎり哀悼に堪えず候。みどり子、何の罪なき、ほとけさまのようなこころのものを、いかなれば、無常の殺鬼という残酷なる奴は、憐れみもなく命を奪い去りしぞとおもえば、実に無常の殺鬼は憎むべき族にて候。真に御小児の御事は傷わしく存候。傷わしさの深きほどまた御小児のゆく先を案じられ候。また皆様の御悲しみのほどをも深く察しられ、いかにも同情に堪えず候。それについては傷わしき御小児の為に、ますます大ミオヤの慈悲の光を仰がざればならぬことと存候。大ミオヤの光明の外に闇よりやみに入る御小児のゆくえを照し給うものはなきものと存候。皆様の御悲しみの深きほどは、大ミオヤの深き御なさけを頼まざればならぬことと存候。真実に悲しいから真実に大おやさまを頼みまいらするようになし候え。
 おとなの事なれば自業自得と云う事も有之候えども、御小児の事なれば、皆様が成りかわって一心に念仏し回向候えば大ミオヤの大悲何ぞ容れ玉わぬべきぞ。
 皆様が御小児のみちびきにより、ますます大慈大悲の親様をたのみ、称名いよいよ忘れがたく相成り、親様との御親しみが深く相成候ことに至らば、全く御小児は仏の御使として、みな様にうき世のあだなるをさとり、浄土の欣ぶべきことを、知らせんが為の善知識にて候。
 子を失いしことの歎きによりて大ミオヤが若しも私どもが親さまの御許をはなれて闇から闇に入ることを歎き給うことをおもい上らるべく候。むかし泉式部ほどの婦人にても始めには仏法を聞くも唯歌をよむ材料位におもうて居りしのが一人の娘小式部の内侍に先だたれし為に何とも悲しみに耐えず、「もろともに苔の下には朽ちずしてひとり憂目を見るぞ悲しき」と歎きしが、
 先だたれし小式部の為に、真実に仏法を求めてついには真に大ミオヤの慈悲をも深く感じられ、寝てもさめても光明住居の身と成りしのちに、「夢の世にあだにはかなき身をしれと教えて帰る子は知識なり」とよまれしとの事。願くばみな様も、御小児のみちびきにて、真実に大ミオヤを頼み、深くじひの光明を得るときは、此世を通じて永劫にたすかることに成るとおもえば、実に御小児こそは善知識にて候。たとい仏が金色の光明を放ちて、説法し給うことを聞くよりは、仏の御使たる小児のみちびきこそは、深く感じらるるとむかしより伝えられ候。


現代語訳

 お子様、お亡くなりになられたとのこと、痛ましいかぎりであり、また悲しみに堪えません。幼き子というのは、何の罪も〔けがれもなく〕ほとけさまのような心なのです。そうであるのになぜ、無常の殺鬼という残酷な奴は、憐れみもなく、命を奪い去っていくのでしょうか。〔もし、〕そのように考えるならば、実に無常の殺鬼は憎むべき族でありましょう。誠に、お子様の事は痛ましいことです。その痛切なる想いの深けれは深いほど、またお子様の行く先が心配となることでしょう。また家族皆様の深い悲しみも拝察し、同情に堪えません。お子様の〔行く先〕については、ますます如来さまの慈悲の光を仰ぎ求めていかなければなりません。如来さまの光明の他に、闇より闇に入るお子様の行く先を照して下さるものはないと思います。皆様の悲しみが深ければ深いほどに、如来さまの深きお慈悲を頼っていかなければならないと思います。〔ただ、悲しみのみに沈むのではなく〕真実に悲しいから、真実に如来さまを頼るようにしてください。
 大人の事であれは自業自得という事もあるでしょうけれども、お子様の事ですから、皆様が成り代わって、一心に念仏し回向すれば、如来さまが大悲の光明を注いでくださらないわけがありません。
 皆様がお子様の導きによって、ますます大慈大悲の如来さまを頼り、南無阿弥陀仏とお称えすることが忘れられなくなり、如来さまへの親しみの情が深くなれば、全くお子様は如来さまのお使いなのです。そして、皆様にこの世の無常を悟り、浄土を〔願い〕欣ぶべきことを、教える善き先生なのです。
 子を失うことの嘆き〔それのみに沈んではいけません。〕私達がお慈悲の光明から離れて、闇から闇に入っていくことを如来さまはお嘆きになるのです。
 昔、泉式部という方がいました。その婦人もはじめは、仏法を聞いても、ただ和歌を詠むための材料くらいに思っていました。ところが、娘である小式部に先立たれ、その深い悲しみを「あなたと一緒にこの世を去ることができず、ひとりこの世に遺される苦しみは、なんと悲しいことでしょう。」と嘆いていました。ところが〔その後〕先立たれた小式部の〔供養の〕為に、真実に仏法を求めるようになりました。そして、ついに真実に如来さまの慈悲を深く感じられるようになり、寝ても覚めても、光明の中に住む身と成りました。〔その心境を〕「この世は夢の世であり、また、はかない身であることを知りなさい。そのように教え、先に浄土へと帰ったあの子は善き先生でありました。」と詠まれたといわれています。どうぞ、皆様も、お子様の導きによって、真実の如来さまを頼り、深く慈悲の光明を得るときは、〔無常の殺鬼への憎みと、喪失の悲しみに沈んでいくのではなく、〕この世を通じて永遠に救われることになるのです。その心境に至れば、実にお子様こそ善知識なのです。如来さまが金色の光明を放って、説法して下さる尊い導き以上に、如来さまのお使いであるお子様の導きこそ、深く感じられ〔真実へ誘うと〕昔から伝えられています。

解説

 このお便りは、その内容から教育者に宛てた御手紙であることが分かります。その教育者の箇所を、読者各自の仕事に置き換えて、そのメッセージを受けとめて頂ければと思います。たとえ物品を扱う仕事であっても、「金銭抔の物質のみ」ではないはずです。その物品を通して、真心や優しさを伝えられ、また、主婦であっても、学生や退職された方も同様です。  
 日々の仕事、もしくはその日々の生活が、歓喜と感謝の職務となっているでしょうか。曇り顔で「つまらない」と生活するか、笑顔で「ありがとう」の生活をしていくか。弁栄上人から発熱を促されています。

出典

山崎弁栄上人『御慈悲のたより』「四十七」上巻六六頁

掲載

機関誌ひかり第703号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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